※ この作品は『山田いさ』と言うペンネームで、
  2007年12月にMasqueradeさん・サイト企画(テーマ:BL)参加用として、製作・公開されたものです。
  企画には「あらかじめ提示された一文を、必ず文中にて使用すること」と言う『掟』があり(編集・加工可)、
  今回は、恩田陸氏の『図書室の海』より出題されました。
  出題:「この謎めいた、意味もないくせに胸を締めつけられるような奇妙な感情に、
      なぜこんなにも心をかき乱されるのだろう」
  これがどのように差し込まれているかもご覧くださいませ。









[ あの想いが還る場所 ]                          



「中島君、私にこの『字』とは名ばかりの記号の羅列を、これから先、何十枚も読めと言うのかね?」
 岩倉教授は受け取った来年度卒論のプレ・レポートを手に、渋い表情で俺を見た。一瞬、何を言われたのか意味がわからなかったので、「はあ」と、とりあえず返してみる。
「せっかく良い論文を提出しても、この字では読む気力が萎えるとは思わないか?」
 教授は机上にそれを置いて、ため息をついた。ここでやっと、さっきの質問の意味がわかった俺は、同じように息を吐く。
 岩倉ゼミはワープロ打ちの卒論が主流になりつつある時代に、あえて手書きで提出させるレトロなゼミだ。
 そして俺・中島教之は、自他共に認める無類の悪筆なのである。






 大学三回生にもなって、よもや書道教室に通うことになるとは。
 何で今の時代に手書きなんだ…と思わないでもなかったが、これから一年以上かけて書く論文が等閑に読まれるのには、そしてそれを半ば予告されたのには、辛いものがある。かと言って、他のゼミに移る気はサラサラなかった。岩倉教授は日本古代史において第一人者で、著名人だ。彼のゼミに在籍していると言うだけで箔がつく気がするし、就職の際、所によっては有利に働くかも知れない。俺のように安易な考えの学生は少なくないらしく、毎年、岩倉ゼミは大人気だった。
 で、書道教室。ペン習字の通信教育を考えないでもなかったが、これは母親に、
「あんたみたいな三日坊主に、ただ送られてくるだけの通信教育なんて、続かないに決まっているじゃないの」
と一笑に伏され断念した。さすがに我が子のことはよくご存知でらっしゃる。それで隣町の書道教室に通うことにしたのだ。家の近所にもあることはあるが、さすがにこの年で書道教室に通う姿を見られるのは恥ずかしかった。
 岡本書道教室は古い住宅地に在った。土蔵を教室として改築したため、天井が高く、窓は蔵特有の小さなものが一つあるだけだ。木の文机に座布団、墨の匂いが満ちて、時代劇で見る寺子屋がイメージ出来た。趣はある。でも一緒に肩を並べて手習いする、自分の年齢の半分くらいしかないガキ共には辟易した。
「うわ、大人のくせに下っ手くそ〜」
 子供は残酷で容赦が無い。週に一度、火曜以外の都合の良い夕方からの時間に来ればいいことになっていたが、どの曜日に来ても子供達の人数はさほど変わらず、俺は良い遊び相手にされた。どうやら彼らの親達は、学童保育所の変わりにここへ通わせているらしい。俺は保父さん的存在になりそうだった。子供は嫌いじゃないし、宿題を見てやるくらい苦にならないが、本来の目的のペン習字は、上達の兆しが見えなかった。
「申し訳ないわね。それじゃ、火曜日に来られる?」
 おっとりした比沙子先生がさすがに気の毒がって、そう申し出てくれた。
「はい。でも火曜日はお休みじゃないんですか?」
「別のお教室のお仕事が入っているので、私はお休みにしているけれど、息子に見させますよ。一応、師範のお免状は持っているし、時々、手伝ってもらっているの」
「そんな特別に時間を割いてもらって、悪くないですか?」
「いいんですよ。どうせ一日、家にいるんだから。少しは同年代の方とお話する機会を持った方がいいの。あら、あなたより十は年上だから、同年代は失礼かしらね」
 先生の厚意を受けて、翌週から火曜日に通うこととなり、俺は保父さん業から解放された。






「これ、字?」
 最初の日、岡本朋彦は俺の習作を見るなり、一言、そう言った。細いあごを、ついた片肘の手のひらに乗せ、実に横柄な物言いだった。銀縁眼鏡の中に見える切れ長の目と薄い唇が酷薄そうで、その物言いと相まって第一印象は最悪。
 大福餅のように福よかな比沙子先生とは正反対に痩せぎすの体格を持つ彼は、俺とは干支一回りの年齢差があったが、十二才も離れているとは思えないくらいに若く見える。
「字以外の何だって言うんですか?」
「象形文字かと思った」
「象形文字だって、文字だろ…」
 ムッとした俺は、独り言の範疇に入る声で言い返してみる。悪筆なのは自覚があるにしろ、言い方に腹が立つ。聞こえたって構うものかと思ったら、案の定、聞こえたらしく、彼はくつくつと笑った。
「違いない。とりあえず、これを見て繰り返し書けよ」
 練習用紙ではなく、四百字詰めの原稿用紙に何やら書き込むと、俺の前に差し出した。


『ある日のことでございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある花の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう』(※)


 教本のように正しく美しい字が綴ったのは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の冒頭だった。
「これ?」
「それ。今から帰る時間まで、繰り返す」
 彼は腕時計を外して操作すると無造作に置いた。机の下から文庫本を取り出し、壁にもたれて読み始める。帰る時間までは一時間ほど。その間この文章を、ただ書き写せってことなのか?――などと聞ける雰囲気ではなかった。
 俺は言われた通りに、とにかく一心不乱で書きなぐる。
 一時間後、正確には五十分後に腕時計のアラームが鳴った。彼は本を閉じて、俺の書いたものに手を伸ばした。原稿用紙は結構な枚数になっていたが、数はこの際、重要ではないようで、「質より量ってとこだな」と呟くと俺を見る。
「中島君…だっけ? 手本、見たのか? 最初から最後まで象形文字のまんまだけど?」
 重ねた一番上と下の用紙を並べて見せる。全然、変わり映えしないどころか、最後の方が象形度の増していることが自分でもわかった。これは途中から、数を書くだけに集中したことに他ならない。
「漢字の書き取りじゃあるまいし、数書けば良いってものじゃない」
「だって、とりあえず繰り返し書けって」
「繰り返し書けとは言ったけど、たくさん書けと言ったか? これを見て書けと言ったはずだ。何のための手本なんだよ。おまえ、大学生だろう? もうちょっと考えろ」
 言われていることは理解出来たし、相手の方が正しいのはわかる。わかるが、だからってその言い方はどうなんだ? 一応、相手は先生だ。口答えはしないさ、俺だって二十を超えた大人だし。なので口は開かなかった。開いたら言い返してしまうからだ。
 俺が黙ったままでいると、彼もまた黙った。しばらくの沈黙の後、再び、彼の口が開いた。
「象形文字になるのは、元々下手なのもあるけど、早く書こうとするからだ。ゆっくり書けば、下手は下手なりに読める字にはなる。心をこめて丁寧に書けば、相手に伝わる。母から正しいペンの持ち方を習ったろう? その握り込むような持ち方を直せよ。君はまず、そこからだ。誰かに読ませることを意識して、正しい持ち方で繰り返し書くこと。わかったか?」
 少し言葉尻が優しくなったような気がした。彼は眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げると、「だから個人指導は向いてないってのに」と言って、時計を腕に戻した。
「今日はこれでおしまい。来週まで、時間ある時はそれを書くように。字は繰り返し書かなきゃ上達しないからな。正しい持ち方で、ちゃんと手本を見て、丁寧に。じゃ、お疲れ様」
 そう言うと、さっさと周りを片付けて、彼は土蔵を出て行った。一人残された俺は自分の字の下手さ加減を、心底呪った。






「どうよ、中島、書道教室の成果は?」
 二ヶ月も過ぎる頃には、俺が書道教室に通い始めたことが友人達に知れ渡っていた。時間がある時に限らず、居眠りにあてていた面白くない講義の間中を書き取りに費やしているのだから、嫌でも目につこうと言うものだ。
「二ヶ月くらいで上達してたまるか。小学校から付き合ってきた字だぞ」
 今までかつて出来たことのないペンだこが、右手の中指に出現しかけていたが、原稿用紙の中の字はどれほども変わったようには思えなかった。
 書き取り見本の『蜘蛛の糸』は三週間経ってもまだ、冒頭から進んでいない。岡本朋彦大先生のオッケイが出ないので、次に進めてもらえないのだ。手本通りになんて書けるはずもなく、従って永遠にこの冒頭を書き続けなければならない気がした。
「何で、『蜘蛛の糸』なんですか?」
 特別指導三回目の日に、俺は朋彦さん――「先生と呼ぶな」と言われたので――に尋ねた。
「別に、意味なんてないさ。今、芥川を読み返しているんだ。それに『蜘蛛の糸』なら国語で習ったろう? 知っている文章の方が、取っ掛かり易いと思っただけだ。書きたい文章があれば、変えてもいいぞ。手本くらい書いてやるから。ま、その文章がクリア出来てからだけどな」
 本から目を離すこともなく、事も無げに答える様子が憎たらしい。
「クリアの基準って何ですか? そっくりそのままな字なんて、俺、書けませんよ?」
「そんなことは期待していない」
「じゃあ、基準」
「僕が良いと言えばクリアさ」
 彼はそう言うと、人差し指で「書け」とばかりに俺の手元を指差した。
 時間中はいつもこんな調子だ。俺はひたすら書き続け、朋彦さんは文庫本を読みふける。終了時間の十分前になると彼の腕時計のアラームが鳴って、書いたものをチェックするのだが、どこが良い悪いの指摘はない。ただ「引き続き、それを書き取りすること」と彼が言って、終わりとなるだけだった。私語の一つもないから、一時間がやたらに長く感じた。
――指導する気、あんのかよ。
 片手間としか思えない朋彦さんへの意地だけが俺の手を動かし、忍耐力に繋がっていた。それでも辞めようと言う気になれないのは、しただけの努力を無駄にしたくないからだ。元を取らないと気がすまない俺の性格もある。取り澄ました彼の口から「クリア」と言わせたかったと言うのも、理由に入るだろう。
 朋彦さんの人となりは、あまりよくわからない。無職であることは確かで、日がな一日、家にいるようだった。ここの教室に申し込んだ時、俺の大学名を聞いて「息子と同じね」と先生が言った。在学中に体を壊し、結局、卒業はしなかったらしいが、自由・バンカラな校風と彼の学生姿は結びつかなかった。もう少しにこやかか、せめて黙っていれば、そこそこ見られるのに。こんな横柄な態度や物言いでは、友達だっているかどうか。
「トモ」
 と思った頃に、彼の友人が出現した。ある火曜日の夕方に土蔵教室の入り口が開いて、顔を覘かせたのだ。
「なんだ、火曜日は休みじゃなかったっけ?」
 スーツ姿のサラリーマン風。襟に社章がついている。俺と目が合うと軽く会釈をくれた。
「特別指導を頼まれて。今日、戻る日だった?」
 微妙に朋彦さんの声の調子が変わった。親しみのこもった感じに。
「ああ。悪い、邪魔だな、俺?」
「あと半時間で終わるから、上がって待っててくれ。これ」
 朋彦さんは彼に向かって鍵を放った。鍵は放物線を描いて少し手前で減速し、彼は手を伸ばして受け止めた。見ていた俺に「お邪魔さん」と声をかけ、土蔵の教室から離れて行った。
 俺が前に向き直ると、朋彦さんの珍しい表情が目に入った。彼の視線は閉められた入り口を透り越し、その先に向けられている。口元が綻んで、柔らかい笑みが浮かんでいたが、俺が見ていることに気がつくと唇は引き結ばれ、文庫本に意識を戻してしまった。
 彼でもあんな話し方やこんな表情が出来るのかと、俺の方はしばらく、朋彦さんから目を離せなかった。






 朋彦さんの友人・菊池司さんとは、それから何度か顔を合わせた。さすがに社会人、ちゃんと年齢差通りの年上に感じられる。それに俺が後輩だと知ると懐かしがって、大学の話で盛り上がった。その中で、彼ら二人が同じ町内で生まれ育った幼馴染で、幼稚園から大学まで一緒だったと知る。今は菊池さん自身、名古屋支社勤務で実家には住んでいないのだが、月に数度、本社での仕事のために戻るのだそうだ。
「もう就活、始まってるんじゃないのか? 貿易関係に興味あるなら声をかけてくれ。骨の髄まで社員をこき使う会社だけどな」
 まったく朋彦さんの幼馴染で友人だと思えないくらい、感じの良い人だ。
「こんな字の下手くそなヤツ、会社の恥だぞ」
 まったくあんたは、何て嫌味なヤツなんだ。
「これから直筆なんて必要なくなるさ。パソコンで処理すればいいんだから。な?」
「ありがとうございます。またお願いするかも。でも俺、教師になろうかと思ってるんで」
「え? この字を黒板で書くつもりなのか?」
 二人は声を揃えて言った。こんなところは友人同士だ。
「ひどいッスよ、二人とも。だからこうして、教室に通ってんじゃん」
 俺の反論に、二人はやはり同じく声を立てて笑った。菊池さんと一緒にいる時は、朋彦さんも印象が柔らかい。よほど気安い仲なのだろう。そのおかげか彼が来ない火曜日でも、打ち解けたような気がする。一言、二言の自然な会話は続くようになった。毒舌は相変わらずだったけれど。文学に関することには舌が滑らかで、意外にも話し上手だ。聞いていて興味深かった。
 この余勢を駆って『蜘蛛の糸』も冒頭脱出なるかと思ったが、そう甘くは無かった。せめて新しい年には、新しい段落で迎えたい…。
 そんなある火曜日、休講続きだった講義の補習が入り、俺は時間よりずい分遅れて書道教室に向かった。補講が入るとわかった時点で休もうかとも思ったが、まだ『ある日のことでございます』から脱し得ていないことが癪で、遅れても良いかと連絡を入れてみた。
 普段の不熱心な彼の様子から「休め」と言われる公算が高かった。しかし意外にも、
「来る気があるなら、来ればいい」
との答えが返ってきたので、一時間半ずらしてもらうことになった。にもかかわらず夕方最大のラッシュ時にバスが渋滞に巻き込まれ、更に半時間が予定よりズレてしまったのだ。
 土蔵教室に彼の姿はなかった。灯りはついていたし、読みかけの本が伏せ置いてあったので、席を外している程度かも知れない。俺は母屋の方に足を向けた。
 申し込みに来た時に通されたように、木戸をくぐった。壁伝いに回れば縁側に出る。そこが居間への上がり口となっていた。
 縁側が少し見えたところで、俺の足は止まった。ガラス戸が閉められた内側に人影を二つ、見止めたからだ。一人は朋彦さん、もう一人は菊池さんだった。その二人なら声をかければ済むものなのだが、様子がいつもと違っていた。向かい合って立つ二人の表情は険しく、話し声はガラス戸に隔てられて聞こえてこないが、言い争っているようにも見えた。
――と、止めるべきなのか?
 割って入るのは無理だとしても、せめて俺が着いたことを知れば意識がこちらに向くだろう。
 踏み出した俺の足は、再度、止まった。
 薄暮の中、菊池さんの手が朋彦さんの腕を掴んだかと思うと、次には引き寄せ唇が重なったからだ。
 他人のキス・シーンなど、珍しくも無い。今時、地下鉄の中でも、街角でも、おかまいなしだから。ただ、それはすべて男女のことであって、今、目の前で展開されているのは、男同士のそれ。これはさすがに…、生まれて初めての経験だ。
 一度、唇は離れた。朋彦さんは菊池さんの肩に額をあてて、それから片手で彼の胸を押し戻し、首を二、三度振った。その細い顎を菊池さんの手が掴み自分の方に向かせると、また唇が重なる――今度は長く。そして菊池さんの手は顎から外れ、肩越しから背に回り、朋彦さんの体を抱き込んだ。
 異質なキス・シーンであるはずなのに、不思議と嫌悪感はなかった。薄暮の効果もあるせいか、すごくきれいだったからだ。若いヤツらの節操無いそれとは違い、目を逸らすことが出来ないくらいに。
 それでも、これは見てはいけないのだ…と言う気持ちがどこかに働いて、俺はその場を出来るだけ静かに離れた。
 



 俺が土蔵で書き取り練習を始めて十分くらい経った頃、朋彦さんが入ってきた。俺の挨拶に頷きで返しただけで、一言もない。黙って座って、伏せていた本を手にした。チラリと様子を窺い見ると、目は紙面に落とされてはいるもののページは次に進まず、上の空なのがわかった。俺の集中力が散漫になると、さりげなく嫌味の一つも飛んで来るところなのに、それもない。
 彼の薄い唇を見ると、最前の場面が蘇った。あの印象的で、目が離せなかったキス・シーン。
 何を話していたんだろう? とても普通の話とは思えなかった。 まだ菊池さんは、母屋にいるのだろうか? 二人は、やはりそう言う関係なのだろうか?
 何度も何度も再生される。
 引き寄せ、引き寄せられ、重なる唇。
 抱きしめ、抱きしめられ、抱きしめ返す身体。
 情景の記憶は甘いような、何とも言えない感覚を伴う。
 この奇妙な――謎めいて意味もなく、そのくせ胸を締めつけられるような感情に、なぜこんなにも、心をかき乱されるのだろう?
 俺はそれらを振り払うようにペンを握り締め、原稿用紙に文字を書き始めた。
「まあ、いいだろう。次の文章に進むから、何か書きたいもの、あるか?」
 一時間後、朋彦さんは書きあがった俺の手蹟(て)を見て、気の抜けるぐらいあっさりと言った。俺自身、まさか『ある日のことでございます』から脱出出来るとは思っていなかったので、「え?」と聞き返したくらいだ。
 書きたいものなど端(はな)から無い。「続きでいい」と答えると、朋彦さんは新しい原稿用紙に『蜘蛛の糸』の続きを綴った。
「また来週に」
 それを俺に差し出し、朋彦さんは本に目を戻した。いつもなら俺を置き去りにしてサッサと母屋に帰って行く彼なのに、立ち上がる様子もない。俺は先に出ても良いものかと迷ったが、話しかけることが憚られる『壁』を感じたので、黙って土蔵から出た。
 その日以来、菊池さんを見かけなくなった。それと同時に、少しは私語が出るようになった火曜日も、「俺は書く人、彼は読む人」の、沈黙の一時間に戻ってしまった。
 以前と違うのは、俺の時間の感じ方が短くなったと言うことだ。これは偶然と言うか、必然の産物で、朋彦さんを目の前にすると、あの薄暮の場面が蘇ってきて、それを払拭するために書くことに集中するからだった。おかげで悪筆は悪筆だが、象形文字よりは『年代』が進み、他人が読めるまでにはマシになっていた。試しにプレ・レポートを書き直して、岩倉教授に再提出してみると、
「これならば、まあ」
と一応は許容範囲には入ったらしく、俺は気持ちよく年明けを迎えられることとなった。
 





 年末は忘年会だの年越しパーティーだので過ごし、年始も予定は目白押し。全部、高校・大学関係の仲間との予定で埋めるつもりだったが、一月三日に岡本書道教室で書初め会が催されると知り、そちらを優先した。新しい年を清清しく迎えられたのは書道教室のおかげもあるし、朋彦さんのことも気にはなっていたから。年末年始で火曜日の教室は、二週続けて休みとなっていた。通い始めた頃は憂鬱だった手習いの時間も、すっかり日常の一部になっている。朋彦さんのやる気のない指導を受けることにも慣れた。休みが続いて彼の独特な物言いを聞けないことに、物足りなささえ感じている。いや、決して俺がマゾなのではなく。
 俺はペン習字の教室なので毛筆書きでの書初めは免れたが、その後の餅つきは若い男手と言うことで、杵方として強制参加。しかし同じく若い男手のはずの朋彦さんは、書道教室の師範の一人でありながらその場に姿を見せなかった。
「あの、朋彦さ…先生は?」
「朋彦先生? ああ、こう言う賑やかな場にはいらっしゃらないわよ」
 どんなところにも聞いた以上のことを話してくれる事情通はいる。その話の中で朋彦さんが、学生の頃に海で溺れてから、大学も中退して家に引きこもっていることを知った。溺れたことになってはいるが、別の説もあると言う口ぶりだ。ただそれも噂に過ぎず、大学を辞めてから何をするでもなく家にいることに、尾ひれがついたようだった。
 段々と母親達の井戸端会議の様相を呈し始める。俺は知らず知らずに輪の中心にされ、居心地の悪さを感じていた。それで比沙子先生の許しを得て、年始の挨拶を口実に朋彦さんを訪ねるべく母屋に回った。
 あのキス・シーンを見た同じ立ち位置まで来た時、あの日の役者がいた。でも一人だ。
 ガラス戸まで進むと、縁側のスペースを書初め台にして、朋彦さんが書の最中だった。彼が一筆書き上げるのを待って、声をかけた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう。なんだ、君も来てたのか?」
 彼はガラス戸を開けた。冷気が滑り込み、書き上げたばかりの書を揺らす。彼は中に入るように言った。
「奇特なことだな?」
「上達したのはここのおかげですから」
「上達って言葉に失礼だろ?」
 そりゃ、今、あんたが書いた字に比べたら、俺の字なんて所詮は象形文字ですよ――出かけた言葉を、飲み込んだ。
「それで、挨拶に来てくれたってわけだ?」
「そろそろ子供や奥さん連中のお守りから解放されたかったってのもありますけどね」
「なんだ、挨拶は口実か」
 朋彦さんは口の端で笑った。その程度でも久々に見る笑顔だ。菊池さんが来なくなって以来の。
「菊池さん、正月はこっちに帰ってきてないんですか?」
 あまり聞かないのも不自然だから、聞いてみる。
「さあ、どうかな。転勤になるって言っていたから」
「転勤って、どこに?」
「アメリカ」
 コーヒーメーカーのポットで保温されていたコーヒーを入れてくれた。合間にその動作が入って、俺はそれ以上、菊池さんの話題を続けられなかった。
 教室以外、それも何もしない状態で向かい合うのは初めてだ。だから、話題が出てこない。年齢も離れているし、同じような趣味を持っているとは思えないし、会話は会話にならず、気がつくと毛筆を握らされていた。
「君も生徒なんだから、何か書けば?」
「う…、毛筆なんて無理」
「ペンも筆も一緒さ。要は『書く』気構え。持ち方はこう。それから、」
 朋彦さんは後ろに回って、俺の手に自分の手を添えた。硯に移動して墨を含ませ、
「書きたい字はなんだ?」
と尋ねるので、とっさに出たのは「心」だった。朋彦さんの心ばかりを思い計るから、この字しか浮かばなかったのだ。
 余分な墨を落とし先を整えられた筆は、半紙の上を滑り、「心」と書いた。字は時に書いた者の心を映すと聞いたことがある。素人の俺には読み取ることは出来ないが、人の手に添えて書いたにしては完璧とも見える美しい字に、彼の頑なさを感じたのは気のせいだろうか?
「今の感じ、わかったな?」
 彼は背後から離れ、新しい半紙に取り替えた。俺は彼がやった通り、硯の海に筆を浸した。墨がたっぷりとついて、慌てて陸で落とす。落し過ぎたかと、また墨を含ませた。加減がわからないから繰り返す。朋彦さんはさぞかし呆れているだろうとチラリと見遣ると、彼はガラス戸の外に視線を向けて固まっていた。
「あれ? 菊池さん?」
 視線の先には菊池さんが立っていた。
 動かない朋彦さんの代わりに、俺はガラス戸を開ける。菊池さんはまず俺を見て「ありがとう」の意味で笑み、縁側のすぐ傍まで来ると、朋彦さんを見た。
「…司、アメリカじゃ、」
「迎えに来た。トモ、一緒に行こう」
「その話は断ったはずだ」
「一緒に来てくれ。俺にはおまえが必要だ。おまえにも、俺が必要なはずだ」
 この場に居ていいんだろうか、俺は? でも今更、動けない。
「話はまた別の機会に聞くから」
「別の機会なんて無いだろう? おまえは逃げるじゃないか」
「中島君がいるんだぞ!」
「俺は何も後ろ暗いことはない。だから誰に聞かれたって構わない。おまえを好きな気持ちは、人に恥じるもんじゃないぞ」
「司!」
「トモは恥じてるのか?! それでまた飲み込むのか?! 身動きが取れなくなって、現実から逃げるのか?!」
 菊池さんは踏み石に足をかけて、手を伸ばした。察して朋彦さんが身をかわすより早く、彼の手はその手首を掴む。
 俺? 筆を持ったまま、その場に座っている。菊池さんの目が「そこに居ろ」と言わんばかりに見たからだ。
「司は勘違いしているだけだ」
「何度、言わせるんだ」
「おまえこそ、何度、言わせるんだ。司は同情しているだけだ」
 朋彦さんの声は感情の昂ぶりを抑えているからか、少し震えているように思う。本人は冷静であろうとして、かなり努力しているのだろうが、完全にその震えを封じるには至らない。固く握り締めた拳が、痛々しかった。
「同情じゃなければ、無用な責任感だ。勝手に司を好きになって、悩んで、馬鹿なことをしたから、同じ事をしでかさないか心配なだけなんだ。それは恋愛感情なんかじゃない。もう大丈夫だから、放っておいてくれ」
「俺の気持ちを勝手に決め付けるなよ」
 まっすぐ朋彦さんを見る菊池さん。そんな彼を見られずに目を逸らす朋彦さん。二人の間に昔、何があったのか知らない。事情通の奥さんが知った風に話していたことに、関係があることはわかる。海で溺れたことはやはり、意図的だったのだろう。そのことを負い目に感じて、朋彦さんは頑なにすべてを否定している。ただ、菊池さんの言葉には偽りは感じなかった。
「好きなのは、おまえに応えてやらなきゃって使命感からじゃなく、俺自身の気持ちだ。おまえに会いたいから、戻る度にここに来るんだ。おまえに触れたいと思うから、触れるんだ」
「司っ!!」
 ガヤガヤと声がした。表の方から、比沙子先生を先頭に年配の奥さん連中が入ってくる。俺が母屋に来て、一時間は経っていた。書初め会がお開きとなり、今度はカルチャー・センター系の教え子と年始の会でもするつもりなのだろう。
 朋彦さんが慌てて自分を掴む手を振り払おうとするが、菊池さんはそれを許さなかった。一層に引き寄せて、朋彦さんの身体はとうとう外に出てしまう。
「あら、司君、あなた、帰っていたの?」
「おめでとうございます、おばさん。トモをもらって行きます」
 菊池さんはそう言うと、朋彦さんにその辺に転がっている靴を履かせて、連れ去って行った。ちなみに靴は俺のものだ。
「なあに、あの子達? これから初詣? 朋彦ったら、上着も着ないで」
 上着はきっと要らない。二人の周りには暖かな空気が満ちていた。それに行き先は初詣じゃないはずだし。
 トモをもらって行く――その言葉を聞いた時の朋彦さんは、耳まで赤かった。十二も年上の、大人の男に対しての形容詞としてはどうかと思うけど、本当に可愛かった。
「よし、会心」
 俺は小学校の書道の時間以来、久しぶりに毛筆で字を書いた。
 「心」と言う字は不恰好で、朋彦さんの手助けで書いたそれとは比べ物にならないくらい拙い。でも、今まで書いた中で一番、美しい文字だと思った。






 あの後の二人の行き先はアメリカではなく、とりあえず菊池さんの宿泊先のホテルだったらしい。引きこもり歴が十年を超えていた朋彦さんには、当然パスポートなどなかったから、すぐには発てなかったのだ。手続きその他で遅れたが、朋彦さんは菊池さんの後を追って渡米した。
 そして十年以上が経ち、俺は無事に卒論を読んでもらうことが出来て大学を卒業、朋彦さんと同じ年になっている。未だに独身なのも同じだ。
 あの薄暮のシーンは、今でも時々思い出す。あの時に感じた奇妙な感情もまた、そのたびに繰り返し蘇った――切なく、甘く、少しの痛みを伴い…。俺はその正体を知ることもなく、知ろうとすることもしなかった。
 たった半年足らず、時間にして一日にも満たない日々が、いつまでも色褪せずに美しい一コマとして在り続ける。その思い出と共に封印されてしまったかのように、二度と朋彦さんと会うことはなかった。




(※) ちくま文庫『芥川龍之介全集2』(筑摩書房刊)より


                                       end.
 
                                  2007.12.01


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