残酷な指先


 若き天才ピアニスト、森華奈子嬢の両手首のない変死体が見つかってから、一週間。
 当初、容疑者と見られていた華奈子の専属医、草壁が謎の死を遂げ、事件は迷宮入りしたかに見えた。
 我らが名探偵、加賀見が華奈子の妹、菜奈子を森邸の談話室に呼び出したのは、そんな時だった。
部屋の隅の大きなピアノは、主をなくし、鍵盤の上にはすでにうっすらと埃が積もっている。菜奈子嬢を待つ間、加賀見は人さし指で鍵盤を弄んでいた。加賀見は決して器用だとは言い難い男だ。武骨な指先が奏でるきれぎれのメロディは、どうやら「蝶々」であるらしいが、お世辞にもうまいものとはいえない。
 「おい、いい加減、教えたまえ」
「何をだい」
人を小馬鹿にしたような、のんびりとした加賀見の言葉に私は苛立って言った。
 「決まってるだろう。華奈子嬢の手首を切り落として殺した真犯人さ」
 「真犯人ねぇ…」
 と加賀見はぼんやりと呟いた。
 「真犯人なんているのかな」
 首をひねる加賀見に私は眉をひそめた。
 「君が昨日言ったんだろ。『華奈子さんの死んだ理由が分かった』って」
 「ああ、『理由』は分かったとも。…けれど、真犯人は…否、そもそも犯人なんているのだろうか…」
 「どういう意味だ」
 ぽーん、と加賀見が鍵盤を人さし指で叩いた。
 「この一連の騒ぎは、結果として一つの事件に見えるだけで、ただの不幸な連鎖が生み出したもなのではないだろうか」
 「この事件がただの事故だっていいたいのか?華奈子さんは薬を盛られていたんだよ」
 「それだよ、二階堂刑事。華奈子さんは薬を飲まされ、ここのベランダから突き落とされて、更に手首を切られている。…これが殺人だとしたら、ずいぶん念のいった犯行だと思わないか」
 「それはまぁ……」
 口ごもった私に加賀見はまた下手くそな“蝶々”を弾きだした。
 「しかも、華奈子さんの手首はまだ見つかっていない。そもそも一体何故、華奈子さんの手首を切断する必要があったのか」
 「証拠隠滅……」
 「いや」
 と加賀見は首を振った。
 「問題は手首の切断がはたして、手段だったのか目的だったのかということだ」
 加賀見の言葉に私が訝しげな顔をしたその時、どこからか拍手があがった。
 「お上手ですわ。探偵さん」
 「菜奈子さん……」
 いつの間に現れたのか、加賀見の“蝶々”を聴いていたらしい菜奈子嬢がにっこりと微笑んで言った。加賀見は演奏が終わった後ピアニストがするような大仰なお辞儀をした。それをみてくすくすと楽しそうに菜奈子が笑う。
 「ピアニストになれば宜しいわ」
 「ありがとうございます」
 菜奈子はにっこりと笑うと、傍らの椅子に腰かけた。
 「それで、どういうご用件でしょう?私、事件に関しては、そこの刑事さんに全てお話しましたわ」
 「いいえ、菜奈子さん。あなたは一番大事なことをお話ししていません」
 あら、と菜奈子が驚いた顔をした。
 「一体、なにかしら」
 「お姉様の手首は今どこにあるのですか?」
 加賀見の言葉に驚いて、私は傍らの少女を見た。菜奈子は表情を変えず、つと手を伸ばすと、でたらめに鍵盤を弾き始めた。白と黒の鍵盤の上で細く白い手首がひらひらと蝶々のように舞う。
 「……私がお姉様を殺した、とおっしゃりたいの?」
 「殺した、という言い方は適切ではないでしょうが、要約すればそういうことです」
 「お姉様が飲んだ薬は草壁の持っていたものですのよ。それはどう説明なさるの?」
 「あなたがたは共犯だった。ある時点までは」
 ふふふ、と菜奈子は笑みを洩らした。
 「ずいぶん、曖昧な言い方をなさるのね」
 「では、はっきりと言いましょう。あなたと草壁は共謀してお姉様に薬を飲ませた。違いますか?」
 ピアノを奏でる菜奈子の指がひた、と止まった。
 「…それで?私が草壁と二人でお姉様を殺した、と?」
 「いいえ」
 加賀見の言葉に私は混乱して、彼を見た。加賀見は目だけで強く頷くと視線を菜奈子に戻した。
 「華奈子さんの死は、実は自殺だったのです」
 加賀見の思わぬ言葉に私は息を飲んだ。
 「あなたと草壁は共謀して、華奈子さんに薬を飲ませた。あなたがどういうつもりでお姉様に薬を盛ったのか、私にははっきりと分かりませんが、草壁の方には下心があったのでしょう。……そこで華奈子さんはあなたと草壁に、死にたいと思うような目に遭わされた」
 「まさか……」
 私の言葉に菜奈子がきっと顔を上げた。
 「下世話な想像は止めて下さい。お姉様は潔白ですわ、汚れてなどいません。…誰が、誰が、あんな男にお姉様を触らせるものですか」
 「では、華奈子さんに薬を盛ったことは認めるのですね」
 我に返った菜奈子は思わず手で口をおおった。青ざめた顔でふるふると首を振る。
 「菜奈子さん…嘘をつくのはおやめなさい。貴女はお姉様から折檻を受けていたのでしょう」
 加賀見の言葉に菜々子はわっと泣き伏した。その肩が小刻みに震えている。
 「お姉様は酷い。酷い、酷い、酷い人です。私を虐める時も指一本、動かそうとしない。草壁に私を鞭打たせて、微笑んでいるだけなのです。あの指で私に触れることすらしない」
 「華奈子さんが!?」
 「仕方がないのですわ。お姉様は天才ですもの」
 菜奈子が涙を手で拭いながら言った。
 「決まって、演奏会の前の晩ですの」
 菜奈子は顔をあげると、ぼんやりといった。
 「草壁とお姉様が私の部屋を訪れるのは。ああ、何度考えてみても夢のようですわ。昼間はあんなに優しいお姉様が、夜になるとまるで夜叉のよう。私の悲鳴を聞いてはそれはそれは楽しそうにお笑いになるの」
 「それで、あなたは復讐に…?」
 私の言葉に菜奈子はふるふると首を振った。
 「……ほんの悪戯のつもりでしたの。私、お姉様の指に触れてみたくて……」
 「指?」
 と私と加賀見は目を合わせた。
 「私、お姉様がピアノを弾いているのを見るが、好きでしたわ。あの白くて細い指が、白と黒の鍵盤の上で、ひらひらと蝶々のように舞って…」
 そう言った菜奈子の目はうっとりとして、頬は軽く上気していた。
 「でも私、お姉様の指に一度も触れたことがありませんでしたの」
 「一度も、ですか?」
 私は驚いて菜奈子に尋ねた。
 「ええ、一度も。…ねえ、だってピアニストにとって指は命ですもの。」
 そう言うと菜奈子は悲しげに笑った。
 「でも正気のお姉様が指を触らせてくれるとは思えませんでしたわ。だから私……」
 「草壁と共謀して、華奈子さんに薬を盛った…?」
 呆然と呟いた私の言葉に菜奈子はにっこりと笑って頷いた。
 「草壁を誘惑するのは簡単でしたわ。あの男が良からぬ目でお姉様を見ているのは私、前から知っていましたの。もともとああいう浅ましい男ですもの。もちろん、私はお姉様に指一本触れさせる気なんてありませんでしたけれど。」
 菜奈子は表情を変えず、つと手を伸ばすと、鍵盤を弾き始めた。最初はでたらめだったメロディが次第に「蝶々」になってゆく。
 「あの晩……薬を飲み干すと、お姉様の手からティーカップが滑り落ちました。お姉様はすぐに薬を盛られたことに気が付いたようでした。その場に崩れ落ちると、ゆっくりと手がお姉様の手が、音もなくその場にまるで舞い降りるように落ちました。そっとその手に触れてみましたわ。その手は細くて白くて、触ったら壊れてしまいそうでした。……私そっとそれを口に含んでみましたの。それはそれは、甘くて氷砂糖のような味がしましたの。指先を舌の上で転がしたり、歯をたててみたり……。私、夢のようで……。気がついたら…お姉様が血塗れの手で悲鳴をあげていました。」
 ぽーん、と菜奈子が鍵盤をはじいた。
 「…真っ青な顔のままふらふらと立ち上がるとお姉様はベランダへ行きました。お姉様の着物がふんわりと風にあおられたかと思うと、そのままゆっくりと落ちていきました。……その後はよく覚えていませんわ」
 私と加賀見は菜奈子嬢の告白に驚いて声も出なかった。
 「じゃあ、華奈子さんは自ら……?」
 菜奈子はぼんやりとしたまま頷いた。椅子から立ち上がるとそのままふらふらとベランダへ出る。華奈子の後へ私達も続いた。
 「華奈子さんの手首を切断したのは草壁ですね」
 「ええ」
 「華奈子さんの手首は今どこにあるのですか?」
 「蝶々」
 加賀見の質問に菜々子はぼんやりと呟いた。
 「え」
 「ひらひらと蝶々のように飛んでいってしまいましたわ」
 ベランダの手すりをふわり、と菜々子が飛び越えた。着物が風にあおられて、まるで舞い落ちる蝶々のように、私達の目の前で、菜奈子の身体はゆっくりと落下していった。

 「草壁を殺したのはやはり菜奈子さんだったのかい?」
 菜奈子の自殺で事件が幕を閉じてから、三日後の昼下がり。事件の処理におおわらわな私とは対照的に、のんびりとソファに寝そべりながら加賀見が言った。
 「恐らくは。」
 と私は手元の捜査資料を見て頷いた。私の答えに不満げに加賀見は眉を寄せた。
 「なんだい、ずいぶん、歯切れの悪い答えだね。」
 「仕方ないだろう。草壁の飲んだ薬と華奈子さんが飲んだものが同じだということは分かったが、自ら毒を飲んだのか、菜奈子さんに一服盛られたのかは分からないんだよ。…それより君こそ、華奈子さんが菜奈子さんを折檻しているとよく分かったね」
 「華奈子さんの部屋に乗馬用の鞭があった。」
 加賀見はそれ以上の説明は不要だとでも言いたげに、テーブルの上の紅茶を飲み干すと、一言呟いた。
 「分からない方がどうかしてる。」
 「だって…乗馬が趣味かもしれないじゃないか。」
 加賀見は私の言葉をはっ!と笑い飛ばした。
 「天才ピアニストの趣味が乗馬。ありえないね!ピアニストにとって指は命だよ?君、乗馬は一見優雅に見えるが、綱を引くのだってなかなか力がいるんだよ。手にまめができるなんて当たり前、下手をして落馬なんかしてみろ、骨折だよ。華菜子さんがそんなリスクを犯すなんて考えられないね。」
 加賀見は一息つくとまあいいさ、と呟いた。
 「それより、華奈子嬢の手首は見つかったのかい。」
 「いや…今、屋敷中を捜索してる最中だ」
 加賀見はソファの上で伸びをすると、欠伸まじりに言った。
 「僕は探しても無駄だと思うよ」
 「また君はそういう…」
 その時、私の脳裏に菜奈子の言葉がよぎった。

 それはそれは、甘くて氷砂糖のような味がしましたの。

 「蝶々さ」
 加賀見の声がどこか遠くで聞えた。
 「菜奈子さんが言ってたじゃないか。ひらひらと蝶々のように翔んで行ってしまったと」
 ちょうちょ、ちょうちょ、なのはにとまれ。
ソファーに寝そべりながら、調子外れの声でうたいだした加賀見の声を私はぼんやりと聞いていた。

またしても微妙に探偵小説風です。好きなんです。探偵小説。自分では書けないけど。
自分では百合小説を書いたつもりなんですが、ちょっとはずれている気がしないでもない…(´▽`;)


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