8度2分


 今日も熱を理由に面会を断られた。しかし、そんなものは奴得意の仮病に決まっている。
 「面会は家族の方に限らせて頂きます」
 と言い張る看護婦に、いいえ、家族よりも親密な十五年来の親友なのです。そもそも彼は天涯孤独、訪れる者もそういないでしょう、どうか会わせて下さい、とお涙頂戴で食い下がると、ようやく
 「…なら、明日の涼しいうちなら良いでしょう」
 と約束を取り付けた。
 明朝早くに、再び信の手を引いて病室を訪れると、部屋付きの看護婦があからさまに困った顔をした。
 「坊やは困ります…」
 感染るので、とはさすがに言わなかった。
 「顔を見せるだけですから」
 と笑顔で答えると、看護婦はしぶしぶと病室の外へ出て行った。
 慣れない真っ白な病室と消毒液の匂いに、おどおどしている信を手招くと、ベッドの傍らへ座らせた。
 「一樹おじさんに挨拶をしなさい」
 「こんにちは、おじさん」
 邪気のない笑顔に、ベッドの上の病人は弱々しく微笑んだ。今日は熱があるのだろう。一樹の頬はほんのりと赤く染まり、血色が良いくらいだ。
 信に中庭で遊んでいるように言いつけると、病人はゆっくりと半身を起こした。不満そうに俺を一瞥すると
 「『おじさん』はあんまりじゃないか」
と、一樹は早速文句をつけた。
 「俺もお前ももう三十だ。『おじさん』で十分だろうが、それとも」
 それとも、父さんと呼ばせたかったか?
 そう言ってやったが、一樹はただ黙ってへらへらと笑っていた。

 一樹の見舞いへ初めて瑞絵を連れて行った日のことはよく覚えている。俺たちは一樹の入院中に籍を入れたので、半分は結婚の報告も兼ねていた。その頃は一樹の病状も今よりもずっと良く、ベッドに腰掛けたまま奴は瑞絵の顔をまじまじと見つめた後、
 「綺麗なお嬢さんだね」
 と言ったのを覚えている。
 型枠を出ないお世辞、通り一辺の挨拶。一樹の言葉をそう受け止めた俺は、その時となりで瑞絵が頬を染めたことにも気が付かなかった。
 腹の中の子供が一樹の子だと俺が知ったのは、臨月も間近に迫ってからだった。
 出産が近づくにつれ、涙もろくなり、日に日に痩せ衰えていく瑞絵を、俺は何か悪い病気ではないかと気が気ではなく、ありとあらゆる医者へ見せたが、検査の結果にいつも異常は無かった。
 先に耐えきれなくなったのは、瑞絵の方だった。
 今、思えばそれは当然のことかもしれない。妻の不義も知らず、産まれてくるのは自分の子だと信じて、奔走する夫を黙って見ていられるほど、あれは強い女でも冷たい女でもなかった。しかし、当時の俺は、そんな瑞絵の優しく弱い性質に想いを巡らせることができるほど、まだ年を取っていなかった。
 「許して下さい」
 そう三つ指をついたあの夜の瑞絵を俺は罵倒した。次に心中を考えた。次に一樹のことを思って、はらわたが煮えくり返るようだった。二人一緒に死ぬのではつまらない、奴も道連れにしてやる、と瑞絵に誓った。
 夜毎、繰り返される罵倒と殺人計画の囁きに、瑞絵は耐えることができず、男子を産むとすぐに息を引き取った。その顔には我が子を置いてゆく未練も悲しみもなかった。ただ役目を終えたその人の安堵の表情だけが浮かんでいた。

 最後に一樹の病室を訪れたのは一体、いつのことだったろう。つい二、三日前のような気もするし、もう五、六年前のような気もする。それとも信が産まれ、瑞絵が死んだあの日だっただろうか。
 「信君というのか」
 一樹のベッドからは、中庭が見えるのだろう。窓の外を見ながら奴はぽつりと呟いた。
 「誰がつけたんだ?」
 「俺だ」
 一樹はしらばらく意外そうに俺のことを見ていたが、
 「…ああ、『Sin』か」
 と穏やかに微笑んだ。
 その笑顔が七年前と全く変わらないことに俺は苛立ちを覚えた。七年前のあの日、瑞絵と共に一樹の病室を訪れたあの日から、奇妙なことに一樹一人、時の流れに置き去りにされたように何も変わらない。病でやつれ、死と日々向き合っているはずの一樹がただ一人悠然と微笑んでいる。
 「何故、あんなことをした。」
 気付けば、そう吐き捨てていた。
 「俺はお前を親友だと、思っていた。」
 それを言ってしまえば、負けてしまう気がしていた。
 けれども瑞絵を失い、信を授かってもなお、一樹の病室を訪れるのも、結局はそういうことなのだ。信を見る度、俺はどうしようもない憎悪と共に、一人死に行こうとしている一樹のことを思わずには、いられないのだ。
 病室の窓から中庭をぼんやりと眺めたまま、一樹は何も答えなかった。窓枠から射す淡い光が、白く一樹の輪郭を縁取っている。
 ……窓枠を額にして、これをこのまま飾ったら、さぞ美しいだろう。
 そんな奇妙な考えがふ、と頭をよぎった時、
 「信君は僕に似てきたね」
 と一樹が言った。
 俺が驚いて、一樹の顔を見ると、もう一度確かめるように
 「信は僕に似てきただろう?」
 と言った。
 呆然として、声も出ない俺に一樹はにっこりと微笑んだ。
 「僕は瑞絵さんを愛していたわけじゃない。そしてきっと瑞絵さんも」
 「じゃあ、何故」
 「分からない?」
 と一樹は一瞬、哀しげに顔を歪ませたが、すぐさきほどの笑顔に戻った。
 「君を苦しめるために」
 「なに…?」
 「僕はいずれ死ぬだろう。けれど君は信を見る度、激しい憎しみとともに僕を思い出すんだ」
 嫉妬したのさ、と一樹は笑った。
 死と正反対にある君達夫婦に。生を孕んだその美しさに。
 「そんな、ことが、したかったのか」
 こみ上げてくる怒りは強烈な吐き気となって、俺を襲った。そんな、身勝手な、一樹の願いのために、俺は瑞絵を罵倒し、殺したのか。そんなことのために、信はこの世に生を授かったのか?
 吐き気を抑えようと口をおおいかけた手は、するりと一樹の手に捕らえられた。指が炎のように熱い。今にも折れそうなその手は、見かけよりもずっと力強い。
 「…そんなことがしたかったのさ」
 目の端に一樹の哀しげな微笑が映った、ような気がした。
 抗う間もなく、重ねられた一樹のその口唇は驚くほど冷たかった。
 窓からの光が白い病室を満たしていく。白い壁に乱反射した光は、白日夢のように病室を染め上げた。

 こん、こん、と弱々しい咳の音で、俺は我に帰った。窓際の病人は年老いた猫のように背を丸め、弱々しい咳を繰り返している。その音にどこからか、看護婦が水差しを持って来た。
 「もう、帰った方がいい」
 水差しの水を口にすると、一樹は言った。
 「ここの空気は、君には悪い」

   それから、ほどなくして俺は一樹の死の報せを受け取った。友人達の再三の誘いを断って、俺は通夜には顔を出さなかった。
 あの日見た白日夢を壊すことが、俺には惜しいような気がしていた。

 大正〜昭和初期のサナトリウムをイメージして書きました…とゆーいいわけは横においといて(笑)
 実は前に二次創作で活動していた某格ゲー(爆)の続編のオチを友人から聞いた瞬間に、ショックで思いついた小説(笑)…息子の名前ネタはそこから、まんま頂きました(´▽`)ので、分かる方には分かってしまうかもしれませんね。

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