オレンジ


コップに並々と注がれたオレンジ色の液体。中にたくさんの透明な泡が見て取れるそれはオレンジジュースに似ている、と思えないこともない。
「…これ飲んだら死ねるかなぁ…。」
ぼんやりと呟いた私を嘲笑うかのように、遠くで蝉が一斉に鳴き出した。
『手に優しいのによく落ちる台所用液体洗剤』
メーカーがこぞって使いたがるありきたりなそのキャッチフレーズ。
恐らく手には優しいこの液体も、飲めば猛毒なんだろうなぁ、なんて馬鹿ことを考えながら、さっきから小一時間。私はコップの中のオレンジ色の液体を見つめている。
「やっぱ苦しいのかなぁ…。」
自殺は薬が一番苦しいらしいけど、『薬』って睡眠薬のことだろうから、洗剤はまた別なのかな。そんな妙に冷静なことを考えながら、私はコップの中に指を突っ込んでみた。
どろり、とはちみつのように指にまとわりつく液体をほんの少しだけ舌で舐めてみる。
「苦い…。」
苦しいとか以前にこれは味が問題だ。こんなまずいものをコップ一杯、飲み干せるなんて到底思えない。
…砂糖を入れたら、少しは甘くなるかしら。
そんな小学生のようなことを思いついた私は、流しの下から砂糖の袋を取り出した。スプーンに大盛り一杯砂糖を入れて、コップをかき混ぜる。
かちゃかちゃとコップとスプーンがぶつかりあい、テーブルの上に洗剤が飛び散る。
クーラーがない台所は蒸し暑くて、私の額からはとめどなく汗が流れていた。
こういう、蒸し暑い日は嫌だ。
どうしようもなく、死にたくなる。
それでなくても私は夏休みが大嫌いだった。
あの絶望的に青い空も、あの希望に満ちた強い陽射しも、健康的に日焼けをした若者達も。
私はみんな、みんな大嫌いだった。
「よし。」
完全に混ざり合った洗剤と砂糖を見て、私はスプーンを回す手を止めた。これだけ混ぜ合わせれば、少しは甘くなっているだろう。
スプーンに液体を少量取り、口に運ぶ。
洗剤は、苦かった。
あんなに砂糖を入れたのに、オレンジ色をしたその液体は絶望的に苦かった。
…スプーン一杯じゃ足りなかったのかな。
「ただいまー」
私が砂糖の袋に手を伸ばすのとほぼ同時に、玄関の方で母の声が聞こえた。
まずい。
そう思った私は反射的にコップの中の液体を流しに流した。
どろどろと名残惜しげに流しに居座るその液体に私は水道の蛇口をひねった。大量に流れる水の勢いにもわもわと洗剤が泡立つ。
「もう、本当に暑いわねー。こう暑くっちゃ、おちおち買い物にだって出られやしない。」
買い物から帰って来たばかりの母がそう言って、汗を拭った。母は流しの洗剤に気付き、顔をしかめる。
「洗剤はほんの少し、スポンジに垂らすだけでいいって言ったでしょう。こんなに使って何を洗うつもりなの。」
私を、とは言えなかった。
私を洗い流すつもりだった、とは言えなかった。
何も答えず、俯いてしまった私に母はため息をつくと買い物袋から紙パックを取り出した。
「まぁいいわ。暑いし、ジュースでも飲みましょう。あんたも飲むでしょ。戸棚からコップ取って。」
私の返事を聞く前に母は流しに向かい、せかせかと泡だらけのコップを洗い始めた。
私も何も言わず、戸棚からピンクの水玉のついたガラスのコップを取り出す。
からんと音を立て、氷がコップに滑り落ちた。
ガラスのコップに注がれたオレンジ色の液体は間違うことなく、正真正銘のオレンジジュースだった。
先程まで対峙していた絶望的に苦い液体を思い出し、私は奇妙な気分になった。
「何変な顔してるの?早く飲まないと氷が溶けるわよ。」
そう言って母は一気に液体を仰いだ。
一瞬、うっ、と母が胸を抑えて倒れたらどうしよう、などと馬鹿なことを考えたが、そんなことになるわけがなかった。母はオレンジのその液体を飲み干すと、もう一杯、コップに液体を注いだ。
「生き返るわね〜。…何、あんた飲まないの?飲まないなら、お母さんが貰うわよ。」
そう母に急かされて、私はしぶしぶとそれを口に運んだ。飲みこむ前に先程の絶望的な苦さが舌に思い出されたが、それもすぐに消えた。
オレンジジュースは、甘かった。
さきほどの絶望的な苦さの液体に比べて、オレンジジュースはどうしようもなく甘かった。
母はもう一杯のジュースも一気に飲み干すと早々と立ち上がった。
「お母さん、そろそろ洗濯物いれちゃうから。あんたそれ片付けておいてね。」
そう言い残して母はベランダに消えた。
コップに残る私のオレンジジュースは、夏の光を浴びてゆらゆらと揺らめいていた。

オレンジジュースが甘かったから。
私はもう少し、生きてみようと思った。

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