闇夜に輝く七色の光



「紗己(さき)ちゃん、今帰り?」
 背後から声をかけられ、はたと振り返る。
(この声は確か……)
「ゆっ……結花子(ゆかこ)さんっ?」
 にこにこと笑顔を振りまきながら薄く茶色に染めた髪が太陽に輝いている。
 ここは駅から少し離れてるし……。それに――とあたしの瞳の奥が曇る。
「だ、大丈夫ですか、結花子さん? あの、か、体……」
「平気よまだ。それにね最近調子いいの。少しでも体力つけておこうと思って」  少し膨らんだ腹部をさすりながら結花子さんは呟く。結花子さんの腹部には大切な赤ちゃんが宿ってもう臨月だって。そのわりには、つわりは少ないらしい。結花子さんはさらに言葉を続ける。
「……元気な赤ちゃん産みたいしね」
 結花子さんは茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。その動作にあたしはくすくすと小さく笑った。
「暑いのにホント元気ですね、結花子さんは」
「紗己ちゃんもまだあたしより若いんだからそんなしょげてないの! もっと胸張らなきゃ、ね?」
 どん、と結花子さんは喋りながらあたしの腰を軽く叩く。ちょっと痛かったけど「痛くない」手だ。
「…………はいっ」
 知らず、あたしは笑みがあふれてくる。
 結花子さんは楽しい人だ。こーんな楽しい人に会えて本当によかった。二十数年間生きてきて今までイイコトなんてなーんにもなかったけど、今は嬉しいし、今の時間は好きだ。

 ――結花子さんは、会ってまだ短いけどあたしの人生の先輩だった。

闇夜に輝く七色の光


 あたしが結花子さんと出会ったのはちょうど今から六ヶ月前。
 あたしは、二十六歳の専門学校生――まあ、大学で就職決まらずにこれからどうしようーかって悩んでた大学生活四年目の二十二歳の秋に考え抜いた答えなんだけどね。
 何もかもが上手く行かない時に、ふと立ち寄ったコンビニで見つけた「専門学校」の文字を見て――これだ! って思ってね。
 あの頃のあたしは自信がなかったんだよね。だから専門学校で改めて自分を見つめ直して自信をつけたかったの。
 絵を描くのが好きで大学では芸術を専攻したのだけど、他の子たちがみんな上手すぎて自分は才能が無いような感覚に陥った。ものすごい劣等感にね。小さい頃から絵を描くことに没頭していたあたしにとってそれは、「あたしの中のもの」すべて喪失してしまった――。
 真っ暗に染まっている――あたしの心の色が。
 それでもあたしは頑張りたかった――あたし自身の色が変われるように。


 そんな灰色な迷いの中に映ったものは、専門学校に入学して一年目の二月末。
「……うぅっ」
 いつものように電車から降りた駅のホームの先で誰かがしゃがみ込んでいるのが見える。
 その人は改札口に向かう階段の途中にいる。駅員さんには気づかれにくいし、ほとんどの乗客はさっさと歩いて改札口に向かって行く時間なのであたし以外にはちょうど人がいない。
 あたししか気づいた人がいない――少し躊躇したが、思い切って声をかけてみる。
「あの、大丈夫ですか?」
 その人はあたしの方向を見てもう片方の手であたしの手にふれる。
 そこから伝わる、すごく温かい手。彼女はあたしの存在に気づくと一瞬だけ照れくさそうに俯く。しかしすぐに顔を上げてあたしの方を見る。その顔はまだ苦しそうだ。
「……ありがと。でも大丈夫よ」
 自身を奮い立たせるように立ち上がる。しかし、よろけたはずみで手に持っていた食料が入っている包みがどすっと大きな音を立てて落ちる。慌ててあたしが拾う。
「あの、家……どこですか? そこまでお持ちしますっ」
 あたしはいても立ってもいられずその言葉が口をついて出る。
 一瞬だけその場に奇妙な沈黙が落ちるが、数刻後に彼女の――何人をも惹きつける不思議な――笑い声が響く。


 その人は猿渡(さるわたり)結花子さんと言って、二年前に結婚してこの辺りに引っ越してきたという。
 結花子さんは先天性の視覚障害で、不遇な幼少時代を過ごしたらしい。養護学校に通えたが、近所では障害児への配慮が行き届かなくて、いわれのない差別を受けたらしい。それでも彼女は恐れなかった。
「……結花子さんって、お強いんですね」
 ただでさえ自信のないあたしは、自分が障害だったらもっと世界から閉じていたかもしれない――そう思うからこその言葉がすんなりと出る。
 あたしの言葉に結花子さんはううん、と首を振る。
「たぶん、わたしひとりじゃなかったから、かな?」
「……?」
「わたしひとりで生きるのは難しかったと思うの。なーんにも見えない世界なのよ? ずっと赤ちゃんでいるようなものじゃない? でもあたしにはいろいろな世界を教えてくれる家族がいたから――父さんと母さん、それに十歳下の弟が」
「弟がね、生まれた時いろいろ思ったのよ――わたしも小学三年生で、弟の顔も肌の色もわからないこと……いくらさわっても弟の色はわからないんだって……」
 結花子さんの顔に悲痛な表情が出る。あたしは黙って聞いていた。
「でもね、母さんが言ってくれたの」
『結花子、あなたには弟の姿は見えないかもしれないわ。でも母さんから見るとこの子は結花子と同じ姿――色を持っているわよ。この子が大きくなった時あなたに世界を教えてくれる日がくるわ。だから、この子の手だけはいつも握ってやって、ね?』 「……わたしはずっと弟の手を握っていたの。だから怖くなかったの」
 結花子さんの母親は弟が生まれた後から病気がちで病院通いが続いたこともあり、結花子さんが弟の手を繋いで世話をしながら、弟の手の温かさを――それから手の中を流れる血の色が同じだと確信できたのだと。
 あたしはそれを聞いて愕然とした。そして悲しかった。
 目が見えるということが当たり前すぎて他人の目――色――を気にしすぎて他人と関わることを怖れ、逃げていたのだ。反対に、結花子さんは逃げずに他人が見えない分、それをバネにして自分から「その人の色」を確認し積極的に働きかけている――。

 駅から少し離れたアパートの前まで着くと、結花子さんはあたしの方に向き直ってあたしの手を握る。結花子さんの手は温かく、七色の手だとあたしは思った。
「ありがと。あなたのおかげで助かっちゃった。お名前は?」
「はい……た、珠村(たまむら)紗己子です」
「紗己ちゃんね。あ、ケータイ番号とか教えてもらってもいいかしら?」
 あたしが頷くと、ぴぴっと赤外線で送り合う。



 あの日を境にしてあたしは結花子さんと電話やメールをしたり、暇ができるたび買い物したり、悩みを打ち明けた。結花子さんも最初こそ自分が視覚障害であることをコンプレックスに思っていたようだ。
 でもあたしの心の中に黒に近い灰色のような心を持っていることがわかると、自分の障害を放り出して自分のことであるかのようにあたしのそれを取り除こうとしてくれた。
 その気持ちは嬉しかったし、それに応えるようにした――。

 こんな出来事があった――あたしが絵を描くのが好きだと知ると、結花子さんは自分が所属する妊婦サークルの冊子の挿絵を描いてほしいと頼んできたことが。
「……下手かもよ」としどろもどろになっているあたしに、結花子さんは、
「まぁーたすぐ悲観する! 紗己ちゃんの悪い癖よ? いー加減直しなさいよね?」
「…………ぅうん」
 結花子さんを纏う空気が納得してないようなので、あたしは言葉をしぼる。
「……はいっ」
「……よろしいっ!」とにっこりと笑う結花子さん。
 その日見た空の色は、澱んだ黒さではなく、藍色に染まった透き通る夜だったのをよく覚えている。それを見上げながらあたし自身の心も澄み渡っていくのを感じたから――。


 ――それが、あたしと結花子さんの出会いなの。




  *  *



「ちょっとそこの人!」
 少し大きい都市の駅で呼び止められるなんて経験、そうそうないと思う。
 だからたぶん他の人を呼んでいるのだと思い、最初は気にしなかった。
 そのままあたしは、赤い四角が看板の全国チェーンの洋服ショップの方へと向かおうと足を進める。
「ちょっと無視しないでよ! 白い紙袋、もらっちゃうよー?」
 また聞こえる……ムシムシ、と思いながら、はたとあることに気づく。
(……あれ? 結花子さんへのプレゼントの入った白い紙袋……どこ?)
 右手に財布の入ったトートバッグはしっかり持っていたが、左手で抱えていた白い紙袋がなくなっていたことに気づく。ということは……。
 歩を進める白いスニーカーの動きを止めると、叫んでいた人が追いついてくる。
「あんただよ、あんた。ったく……俺が気づかなかったら誰かに持ってかれたのかもよ?」
 ぶつぶつと呟いて現れた人物は、初めて会う人で――顔一つ分長身の男の人で――最近の流行な髪型で切り揃えている。少し偉そうな口調だが、あたしより年上にはみえないな、と思った。まぁ、あたしは実年齢より若く見えることが多いから仕方ないのかなぁ。
「……あ、ありがとうございます、それでは」
 白い紙袋をがさっと取り返すと、お礼だけ言ってその場を後にする。
 あたしが後ろ髪ひかれる思いでちらっとだけ垣間見ると、届けてくれた人は呆気にとられてこちらを見ている。
 恥ずかしかったし、結花子さんとの約束の時間に遅れちゃうからね。ごめんなさーい、と心の中で謝った。


 さらにひと月ほど経ったある日のこと。
 あたしはたまたま学校が休みで、ブログの更新をしているそんな時に――彼女から電話がかかってきた。
「……もしもし?」
『…………紗己ちゃん? いま……どこに……』
 電話の主は結花子さん。彼女の声は思ったほど落ち着いていたがすこし焦りがあった。
「今日は学校休みで、家にいます。結花子さんこそどうかしました?」
『ちょっと……を…………んでもら――』
「えっ? な……なんですかあの――」
 そこで受話器から聞こえる音がツーツーと鳴り響く。電源を切ったのだ――。

  *  *
 

「紗己ちゃん、あなたがいてくれなかったらわたし、この子を産めなかったかもしれない。ありがとう」
 病院のベッドの上で笑う結花子さんは今まで以上にきれいだった。
 あの後……突然の電話に不安を感じて結花子さんのアパートまで行ってみたのだ。そこに結花子さんの姿はなかったけれどアパートの隣の住人があたしのことを知っていたようで、結花子さんが滞在されている病院の場所が書かれた紙を手渡してくれて、あたしはその病院まですっ飛んでいったのだ。

 もうすでに、結花子さんは出産されていて、あたしがなぜだか結花子さんのお子さんの第一号になってしまったらしい。結花子さんにたずねるとどうやら本当は旦那さんに電話しようとして間違ってあたしの携帯電話にかけてしまったとのこと。
 優しくておおらかでちょっとおっちょこちょいな結花子さんらしいな、と思わず笑ってしまう。あたしのその顔をみて結花子さんもつられてふふっと笑いかける。
「あ。紗己ちゃんの笑顔、かわいいわ。いつもそんな風に笑ってたらいいのに」
 結花子さんの茶目っ気たっぷりの言葉に思わずあたしは赤面する。どうしたらそんな言葉がでるのかホントに不思議だ。


 でも。あたしは結花子さんの手を軽く握りながら思う。
 ――すごく嬉しかった。目の前がどす黒い灰色から虹色へ変わるのを感じたことを。


 この時あたしは、あたしの存在があってよかったんだ、と思った。あたしは生きててよい存在なんだと確信することができた。
 新たな生命の誕生に立ち会えたことに、あたしの胸がぞくっと震えている。

 その日の夕方ロビーで待っていると、病院の看護師さんから結花子さんの家族の方が来た――と連絡があった。あたしは携帯電話の時計を見た――まだ十六時三十分だ。
 そのときのあたしは、結花子さんのご主人は十八時にならないと帰ってこないらしいから誰だろう、と漠然と思った。結花子さんの母親は入院中で父親も仕事中だと聞いている。

 足音が近づいて現れたのはものすごく若そうな青年だった。二十代前半くらいで、最近の流行の服装に身を包んだ青年だ。そういえば、結花子さんには十歳下の弟がいたかな。
「猿渡結花子さんの弟さんですか?」
 あたしの言葉にその青年は微かに頷く。
「姉……が最近お世話になっているというお友達の方、ですね。病院まで連れてってもらい本当に何から何まで感謝してます」
 丁寧にお礼を言われて、あたしは「いえ……」と言いかけながら顔をあげると、その人――結花子さんの弟――の顔を見てびっくりする。
「あぁ――っ! あ、あなた……あの時のっ駅のっ」
 間違いない、駅で会った結花子さんのプレゼント届けてくれた人だ。
 あたしは、素っ頓狂な叫び声とともに人差し指をびしっと目の前の青年の鼻先に立てる。指差された青年は変な顔をする。
「……は? あ、お……お前、あの時の紙袋女っ!」
 あたしは眉を八の字に曲げながら全身をがたがたと震わせる。
  「もー信じられないっ! こんな偶然ってあるっ? あなたが結花子さんの……?」
「そりゃーこっちの発言だ! 姉貴が恩義に感じてるのが……お前が?」
「ていうかあなた何歳よ? この前の駅でも思ったけど……その偉そうな口調、何なの?」
「二十三歳だよ!」
「ほらーやっぱ年下じゃないっ! 年上にはもっと謙虚に……」
「……えっ?」
 あたしの言葉に、結花子さんの弟はものすごく変な顔であたしの方を見た。むしろあたしが「ん?」と次の言葉を躊躇するほどだった。あたし、なにか変なこと言ったかしら?
「お前……二十歳くらいじゃないのか?」
「あ、あたしはこれでも二十六よっ」
「そ、そうか……。それは、すまなかったな」
 結花子さんの弟は途端に自信なさそうに応える。あたしは思わずむきになって実年齢を言ってしまったが、怒るほどでもなかったか――うん、とひとり頷く。
「まあ、いいわよ別に。あなた名前は? あたしは珠村紗己子。結花子さんには人生の先輩でいろいろ教えてもらってるの」 「俺は……佐多啓太(さたけいた)。今年の三月に大学を卒業して今は……保育士だ。大学を卒業するまでは姉の補佐をしていたのだが、卒業してからは難しくて……そんな中でおま……あなたみたいなのがいてくれて助かってる。ありがとう」
 不思議と心の中に染み入る笑顔で啓太は応える。ありがとう、という言葉にあたしは心の中で澱んでいたものがゆっくりと溶け出していく気がした。


 そのあとであたしは結花子さんの弟――啓太くんとともに再び、結花子さんが入院されている部屋へと案内する。
 赤ちゃんが無事生まれた、と結花子さんの口から啓太くんに紡がれたとき不思議な感覚に包まれていく。それを見ていてあたしは口の端が上がって静かに目を見開く。
 ――仏頂面の啓太くんが、笑っている。

 ふと思う。啓太くんも結花子さんが好きなのだなって。
 結花子さんへの共通した想いがあるだけで心がこんなにもかわれるのだ。今まで黒く染まっていた灰色が、薄明かりの虹色に変わるように――ね。

  *  *
  
「紗己ちゃんのおかげよ、ありがとう」
 出産を終えた結花子さんがケースごしの赤ちゃんを優しく見つめながらあたしの方に振り向いて呟く。あたしは何を言えばよいかわからずただ俯く。
 そばで見守る啓太もぶっきらぼうに呟く。
「おまえのおかげだよ…ありがとな」


 病院の建物に背を向けると、外はもう暗闇にどっぷり浸かっていた。風が夜の木々の梢をかき鳴らす。
 でも、あたしの視界は涙でいっぱいだった。
「……あたしでも役に立つんだ……よかったよ……」
 なんでもない出来事なのにぐすぐすと涙が溢れ出る――どうしようもなく。昔の自分が自分のわがままで出る涙のように冷たくない、素直で暖かい涙だ。
 灰色から白に世界の色が変わるように、何かが変われる――素直になれる気がした。
 携帯電話のメールの着信の色が七色に光る――『明日、姉貴の家にきてほしい』と届いていた。



Fin.