桜と橋の先で

 母親と子どもが、バチバチと燃える暖炉の前で対面して座っている。
「いいですか、フォリン。この世界の姫たる者は、立派な王になって国を治めるために一年間……《人間》の住む世界に行って、人間と暮らし、そしてそこから知識を得、再び帰って、王として即位した時に活かすのです。わかりましたね」と母親が優しく小さい頭をなでる。
 子どもの方は聞いているのかいないのかに関してはわからないが、白い両耳を動かして、無邪気な笑いではっきりと小さく頷く。

 フォリンはこの時、いつも国民の前に立って政を行う王としての母ではない、子どもに対して優しく接する母親であることに気づく。
 どんなに年月が経とうが決して忘れず、今もなお、鮮明な記憶として残る――。

春が、そこに訪れて




 寒く冷たい北風が三月に入ってゆっくりと日本を離れ、暖かい気候になる。
 この地方の四月は、もう桜が満開になって小鳥もさえずり、澄んだ青空を飛び回っている。

 そして子供達も進級し、学校が始まった。
 泉ヶ丘市立南小学校もこの日、同様に始業式だった。然しこの学校の六年のあるクラスに転入生が現れたのだった。  その転入生は――加納美和という――この学校で転校十一回目だった。
 背中まである曲のない髪で眼鏡をかけて、赤いランドセルを背負って、六―一の担任である庄田真純先生の後ろについて来て、今クラスの外で待っているのだった。
「……加納さん、入って」
 庄田先生の鈴のような声で、美和は入って行く。教室内は四十人位の生徒が此方を見ていた。美和は鋭い目つきで、 (……ジロジロと人の顔を見ないでよ)
 と内心思いながら目で制した。庄田先生はそんな視線には気付いていなく、
「彼女が、加納美和さんよ。みなさん、一年間仲良くしましょうね。さ、加納さん何かあいさつして下さい」
と言った。
(ふん、どうせ……この町にだって一年間しかいられない……)
 美和の父は転移の多い会社の専務代理のため、様々な地方の支店長にかりだされるため、ほぼそれぞれの町に一年間しか居られないのである。今回も例外ではなかった。そんな事情を気付かれないような表情で、美和はあいさつした。
「加納美和です。どうぞ、よろしくお願いします」
 と美和があいさつする。その後、庄田先生が、パンッ、と手を打ち、
「では……加納さんの席は、窓際の一番後ろですね。……とりあえず、次の席替えまではそこで我慢して下さい」
 と言い、その席を指差す。
「はい」
「あ、それから藤澤さん」
 美和は歩いてその席まで行く途中、庄田先生がある一人の生徒の名を呼んだ。
「はい!」
 美和はその返事が近くから聞こえたので、驚いて今まで俯きかげんだった顔を上げる。
 なんと、藤澤という生徒は美和の隣だという。美和は指定された席に着くと庄田先生が、
「加納さん、隣の藤澤さんは学級委員ですから、何かあったら聞くように。……藤澤さん、後で加納さんに学校を案内するのですよ」
 と二人に、テキパキと指示した。
「はい……」
 美和は抑揚のない声色で返して席につく。しかし一方隣の藤澤という少女は、
「はい、わかりました!」
 とはきはきと答えた。そして彼女は座ると、美和に向かってニッコリと笑い、
「わたし、藤澤由貴! よろしくね、……えっと美和ちゃん?」
 と自己紹介をした由貴は、髪を後ろで二つずつ結んだ、人懐こそうな少女だった。当の美和は十一年間こういう風に言われた事がなかったので、少し驚き、目を見張った。
「……う、うん……そうだけど」
 慣れていなかったため美和は、そう答えて、黒板の方の正面に向き直る。

 *  *  *

 この日は学校が始まって初日だったので、先生の話の後すぐ終わり、生徒達は早々に帰ったり、教室に残っておしゃべりをする生徒もいて、校舎はにわかにざわついていた。
 美和は誰とも話すことなく、早々に教室を退出して、玄関で靴を履いていた。この時間、この場所もざわついている。
「あ、美和ちゃん! 方向どっち? 一緒に帰らない?」
 背後からの明るい声に美和は驚いて振り向くとそこには、笑顔の由貴が立っていた。
「和泉町の八丁目、だけど……」
「あ、じゃあ……途中まで一緒に帰ろう!」
 由貴がそう言うと、靴を履いた。そして美和は由貴と一緒に、校門を抜けた。

 *  *  *

 美和は由貴と南小学校からおよそ五百メートル離れた所にある三和橋まで歩いてきた。
 その橋の下の伊瀬川はとても綺麗に澄んでいて、青く澄みきった上空をそのまま映していた。
「あ、美和ちゃん、和泉町だっけ。……ここでお別れだね」
 由貴が三和橋を渡る直前でふと、足を止め、言った。
 この三和橋の先が《キツネ丘》のある和泉町で、この橋の手前を右に向かうと和田町で、残る左の道が大和町だった。
「あ、うん。あんたは……?」
 美和が粗末な口調で訊ねると、由貴は左の住宅街を指差して笑みを浮かべる。
「大和町なの。……あ! あのさ……」
 由貴は何かを聞きたそうにしている。美和は怪訝そうに一瞥する。
「ん? 何?」
 由貴は途惑いながら人差し指を顔に上げて何か考えていたが、しばらくして周囲に目をやって明るく笑う。
「あ、ううん。ごめん、何でもないの! ……バイバーイ、また明日ね!」と明るく何事もなかったように振る舞ってから、逃げるように左の道を走って行く。
 由貴が見えなくなると、美和はキョトンとしていた。
「?」
 その時美和は背後に不穏な空気を感じたので、素早く後ろに振り向く。
 すると突然後ろの林から大勢の真っ黒いカラスが一斉に吠えながら飛び去る。美和はそれを見て一瞬驚いたが、
「何だ、カラスかあー……」と、ホッと息をなでおろす。
 

 そして美和が三和橋の中腹まで歩いていると、視線の先に向こう側の橋の川側の柵につかまっている子どもが目に入る。

 その子は今にも、新春の冷たい川に落ちそうだった。
(危ない……っ!)
 美和は無我夢中でそこまで走る。
 子どもはとてもあわてていて、両足が宙を泳いでいた。
 季節は春だというのに首に薄いピンクのマフラーを巻いている。
 しかし美和が思わずぎょっとしたのは――。
「み、耳が……!?」
 なんと、その子供の耳が顔の横ではなく、頭の両端に生えていた事だった!

「た、たすけてくださぁ~いっ! ……あーっうああー!」

 と動物のような耳を持つ不思議な子どもが美和に向かって泣き叫んだ。
 美和は少し躊躇していたが、しばらくしてその子どもの前の橋の上まで行って右手を下ろした。
「この手につかまって!」
 その子は両手とも橋板にしがみついていたが、左手をゆっくりと離して美和の右手につかまった。
 美和は右手にできる限りすべての神経を集中して、子供を引っ張った。
 その時、その子は引っ張る勢いで上空に飛び上がる。美和は驚いて手を離してしまったのだ! しかし子供はニコニコと笑いながら宙でとんぼ返りをして、そのまま橋の上に転がり……。
「だ……大丈夫?」
 美和は恐る恐る声をかけた。またまた美和はその子の後ろ姿を見て目を見張る。
 なんと、腰の辺り――赤いスカートの裾から白い尻尾が、ニョキッとでていたのだ。
(え……えぇっ?)

 そんな美和の驚きも知らずに子供はスッと立ち、美和の方に振り返った。
「助けてくれてありがとうね。あたし、フォリン! あなたは?」
 シッポのある子ども――フォリンはニコニコしながらお礼を言う。
 まだ驚いていたが気を持ち直す。これは夢?
「……加納、美和、だけど……?」
「みあちゃんだね! あのね、あたし動物界から来たの! 一年間あそこの小山で暮らすの!」
「みあ? ……いやあの……あたしは《みわ》……」
 美和のツッコミをよそに、フォリンは明るい声で美和の家がある和泉町の《キツネ丘》と呼ばれる高台の無人の丘を指差す。  「はあ?」と漠然と聞き返す美和。
「動物界? ……って動物園のこと? 一年間……?」
 美和の言葉にフォリンは頬をぷう、とふくらませる。
「ちがうの、動物園じゃないの、動物界なの! あのね、ここから……んーと、どこだっけ……あ! みあちゃんは知ってる?」
 最初は怒りをぶつけたが、最後は美和に話を持ちかける。
「何?」
 何を言われたかわからない美和は怪訝そうな顔で聞き返す。
「あたしのおうち、知ってる?」
 フォリンは質問を飛躍して(本人は自覚していないが)話す。すると美和は、自分が新しくここに来たのが馬鹿にされたような気がして、
「知らないわよ! わたしは初めてここに来たんだからっ!」
 とつい言葉を荒げ、怒って歩き出してしまった。フォリンは再び、笑顔に戻る。
「じゃあ、あたしとおなじだね」
 その言葉に美和は歩くのを止め、踵を返した。
「え?」
「あたしとみあちゃん、おなじ。この町が初めて。《なかま》だね」
 なにかがとけだす、そんな感じがする。
(わたしと……同じ、《なかま》……)
 そして美和は今まで、閉じてきた感情が一気に涙として溢れ出た。

 ――だれでも、よかった。

 だれでも、いいからわたしをおなじ《なかま》として呼んで欲しかったのだ。
(わたしとフォリンは似ている……? いや……フォリンには《わたしにはないもの》を全部持っているだけ……)
「みあちゃん?」
 美和が涙を流している事に気づいたフォリンがふと心配そうに美和の顔をのぞきこむ。フォリンは両耳、尻尾を左右に揺らしている。
「ありがとう……ありがとう、フォリン」
 この時、美和は生まれて初めて心を開く事のできる《なかま》に会ったのである。

 ――これは春の風とともに贈られた少女とフォリンの小さな小さな出来事でした。