追憶の彼女 〜きこえるもの〜



突然、曲が途切れた。ユヅキさんがヘッドホンを引っ張ったのだ。

――そんなふうに耳をふさいでいたら、大切な声が聞こえないでしょ?

私が音楽を聴いていると、ユヅキさんはいつもこう言って微笑んだ。だから、ヘッドホンをやめて、片方
の耳だけにイヤホンをつけることにした。
今も、そうして歩いている。
駅前の商店街は、5月の連休中だというのに人通りが少なく、シャッターを下ろしている店舗が目立つ。
ユヅキさんと一緒によく行った魚屋さんもそうだった。ユヅキさんの誕生日プレゼントに帽子を買った店
は、大きな本屋さんに変わっていた。
「あら、ゆうちゃん?久しぶりねぇ」
肉屋のカウンターから、懐かしいおばさんの声が聞こえた。よかった、この店は残ってたんだ。
「こんにちは〜、えっと、牛肉コロッケ…一つね」
つい、「二つ」と言いそうになってしまう。
「はい、ありがと。ゆうちゃん、今大学生だっけ?まだ横浜のほうに住んでるのよね?」
「うん。でも就職はこっちでするから、来年の春にはこっちに戻ってくるよ」
「あら、そうなの。どんなお仕事に就くつもり?」
「実はね、先週内定もらったんだ。雑誌編集の仕事。通勤時間がちょっとかかりそうだけどね……。今日
はユヅキさんに、その報告」
「そっか、おめでとう!じゃあ、来年の春からはまた仕事の帰りに寄ってちょうだいよ」
「は〜い」
おばさんにお金を払って、コロッケを受け取ると、袋の中にコロッケが二つ入っていた。
「…おばさん、一個多いよ」
「えっ?あぁ、…やっぱり、ゆうちゃんの顔見ると、つい二つ入れちゃうのよね。まぁ、私からの就職祝いっ
てことで、サービスしてあげるわ」
おばさんの丸い顔がニッコリした。私はお礼を言って、また歩き出した。
商店街の近くには小さな公園がある。小学生が3、4人ブランコの前で縄跳びをしているのを眺めながら、
ベンチに腰を下ろした。

――ほら、コスモスが咲いてるよ。

まるで幼稚園児に話しかけてるみたいだと思った。

――きれいねぇ。家の庭にも、花、植えてみようか。

そう言って、ユヅキさんは本当に花を育て始めた。最初は二つか三つの鉢植えだけだったのに、どんどん
増えて、庭は花でいっぱいになった。ユヅキさんはいつも家の中で仕事をしていたから、仕事に疲れると
庭に出て、ゆっくり花に水をあげたり、のんびり雑草を取ったりしていた。
そう、ユヅキさんは何でもゆっくりだった。ご飯を食べる時も、洗濯物をたたむ時も、掃除する時も、ゆっくり
だった。走るところを見たことすら、ほとんどない。

――急いでると、必ず何か見落としちゃうから。

私はせっかちだったから、ユヅキさんのそういうところに時々イライラしていた。一緒に暮らし始めたばかり
の頃は、特に。でも、しばらくすると、私自身もユヅキさんにつられてペースダウンしていった。だから、今
もこうしてベンチに座り、のんびり空を仰いで、ユヅキさんのことを思い出せる。ユヅキさんと暮らす前だっ
たら、こんなの時間の無駄だ、他にやらなきゃいけないことがいっぱい待ってる、と言って早足で家に帰っ
ただろうに。

私は立ち上がって、家へ向かって歩き出す。家に帰れば、ユヅキさんがいるような気がする。ただいま、って
玄関で言えば、書斎から顔を出して、おかえり、って言ってくれるような気がする。返事が無かったら、裏庭へ
行ってみる。ユヅキさんは花の世話をする手を止めて、私を見上げる。そして……

家の中は真っ暗だった。鍵を開けて、久しぶりに家の中へ入る。4ヶ月振り、いや、もっとだ。
「ただいま」
言ってみるけれど、返事は無い。そうだ、ユヅキさん、いないんだ。
荷物を下ろして、台所で手を洗って、コロッケを一つ、皿にのせる。もう一つは、袋の中。両方をユヅキさんの
書斎へ持っていった。
ユヅキさんの書斎は、この家で唯一の和室だ。ここにあるのは、低い机と本棚、そして膨大な数の本。だから、
壁一面が本棚になっている。カーテンを閉めたままだったので、部屋の中は薄暗かった。コロッケの皿を机に
置いて、畳に座る。
「…早く帰ってこないと、ユヅキさんの分、食べちゃうよ」
ため息をついて、袋に入ったほうのコロッケにかじりついた。食べながら、机の上の写真立てに目をやった。
五年前に二人で北海道へ行ったときの写真だ。背景にはラベンダー畑が写っている。ユヅキさんは、私が
あげた白い帽子をかぶっている。そして…私は高校二年生で、その数ヶ月前に母親を亡くしていた。
……いや、母が死んだのは、たぶん、もっと前だ。


中学校三年生の夏。置き手紙と私をアパートの一室に残して、母は失踪した。父が交通事故で死んだ、半年
後のことだ。理由は、わからない。手紙には、ただ出て行くということ、私を残していくことに対する謝罪の言葉、
そして、母の友人の井川さんという人に、私の面倒を見るように頼んでおいた、ということしか書かれていなかっ
た。何度も何度も読み返したが、どう見たってそれは母の字だったし、どこへ何のために行って、いつ帰ってく
るとか、そういうことには一切触れていなかった。
どうしていいのかわからず、途方に暮れていると、誰かがアパートに駆け込んできた。今の私と同じ年頃の、き
れいな女の人だ。その人は息をきらして、私に聞いた。

――お母さんは?

どう返事していいのかわからず、首を横に振ると、その人はガックリと膝をついた。

――もう、遅いの……?

私は、その人が封筒を握り締めていることに気付いた。たぶん、この人が……

――私、井川由月。お母さんの友達、なんだけど……

ユヅキさんにも、私にも、警察にも、母を追うことはできなかった。遠く離れた海で母の亡骸が見つかったのは、
それから1年半後のことだった。


コロッケを食べ終わると、畳の上にごろんと横になった。家の中は、とても静かだ。机のほうから、ペンを走らせ
る音、本のページをめくる音が聞こえてこないだろうか。もちろん、ここにユヅキさんはいない。私だけだ。
そういえば、ユヅキさんが唯一すばやく行動していたのは、仕事をしているとき――小説を書いているときだけ
だった。原稿に向かっているときのユヅキさんは、普段ののんびり屋でマイペースなユヅキさんとは全く別人だ
った。真っ白な原稿用紙を塗り潰すようにして、あっという間に埋めつくしてしまうのだ。

――書きたいことが、たくさんあるの。その全部を書くためには、人生一回分じゃ時間が足りないくらい、たくさんね。

だから、ユヅキさんはスランプに陥ることも、執筆のスピードを緩めることも、ほとんど無かった。しかも、高校生の
時から作家として活動していたのだから、その作品の数はとんでもないことになっている。ベストセラーになった
本だって、何冊もある。

――どうせ、いつかは死ぬんだもの。たいしたことじゃないわ。

ユヅキさんは、書き続けた。ユヅキさんと暮らし始めてから、私は本をたくさん読むようになった。知らないことば
っかりだった。つまり、世の中のことなんて、私は何も知らないんだ。

――本、あんまり読まない?これなら読みやすいと思うよ。
――読書感想文かぁ、書くの難しいよねぇ。
――ね、北海道行かない?取材旅行なんだけど…
――ブレーキなんてついてないのよ。だから、止めて頂戴ね。

――ゆう、頼みたいことが……



畳の上で寝返りをうって、カーテンの閉まった窓を見た。大きな窓だ。ここから外へ出られる。ユヅキさんも私も、
花の世話をできなくなったから、庭はきっと無残な姿になっているだろう…ユヅキさんが今の庭を見たら、がっか
りするかもしれない……。

私はカーテンを開いた。光が流れ込んでくる――眩しい。パチパチ瞬きをして、庭を見た。予想通りの姿だった。
煉瓦を敷き詰めて手作りした小道には苔が生え、その上に枯れ葉が散らばっている。小道に沿ってずらりと並ん
だプランターは、どれも雑草に覆われ、花なんかどこにも―――
「あっ……!」
私は急いで窓を開け、色あせたサンダルに足を突っ込んで、プランターの一つに駆け寄った。雑草の茂みの中
に、小さな赤いバラが一輪、咲いていた。…去年の秋、ユヅキさんの小説がベストセラーになったお祝いに、ブ
ーケをもらったことがあった。しばらく花瓶に生けておいたけれど、だんだん萎れてきたから、そこからユヅキさん
がバラを一本抜きとって、プランターの土に差してみたんだ。
「…ユヅキさん、咲いたよ」
私は呟いた。
なぜだか、無性に泣きたいような、叫びたいような気持ちになった。
わからない。私は悲しいのだろうか。…嬉しいのだろうか。わからない。
「咲いてるよ……」
もう一度言った。バラの花が、滲んで見えた。

――幽霊の話を書こうと思ってるの。子どもの絵本みたいなお話。

ユヅキさんの声が聞こえる…
ここにいるの?
ユヅキさん、ここにいるよ……ここに!

――タイトルはね、

ユヅキさんの声が聞こえる……

聞こえる……

――『きこえるもの』っていうの。

水が一滴、花びらに落ちた。
「ユヅキさん……」
手の甲で涙を拭うと、今度はバラの輪郭がはっきり見えた。
そうだ、ユヅキさんに会いに行かなきゃ。このバラを見せないと。
雑草を育てていた小さな鉢を引き寄せて、雑草を全部引き抜いた。そして、さっきのバラをそっと植え替えた。
たっぷりと水をやって、家の中に入る。出かける準備をして、また外に出てくる。バラの小さな鉢を持って、門を
出ようとしたところで、忘れ物に気付いてまた家の中に戻った。家に帰ったとき持ってきた旅行鞄から、ぶ厚い
ファイルを取り出した。

――大丈夫。私には、私の……ゆうには、ゆうの…ゆうだけの世界があるんだから………

私は大荷物で家を出た。左手には雑巾を引っ掛けた水入りのバケツ、右の肩には線香とロウソク、ライター、
ファイルが入った袋を引っ掛け、バラの小さな鉢植えを右手で危なっかしく抱える。ユヅキさんのいるところま
では、徒歩3分。その入り口でちょっと立ち止まって、深呼吸した。
緊張。
冷たい石に囲まれた場所へ、踏み出した。ユヅキさんのところへ。

「ユヅキさん、久しぶり」

私は目の前の墓石に向かって、微笑んだ。



ユヅキさんが倒れたのは、去年の年末。ちょうど冬休みで、私は家に帰っていた。そして、ちょうどその休みが
終わる頃、ユヅキさんは死んだ。聞いたこともない名前の病気だった。普通なら、ほとんどかかることのない病
気だ。でも、私も、ユヅキさんも、こういうことが起きるかもしれないと、ずっと前から予測していた………ユヅキ
さんがHIVに感染していることは、ずっと前から知っていた。

「私さ、就職決まったんだ」
墓の掃除をしながら、私はユヅキさんに話しかけた。
「雑誌編集の仕事。春からは、こっちに戻ってくるんだ。だから、ここにも毎日来れるよ。庭の手入れもできるよう
になるし……そうそう、去年の秋に植えたバラ、覚えてる?ちゃんと咲いたよ、小さいけど。今日持ってきたん
だ、ほら」
花を供え、線香とロウソクとライターを取り出す。私はひたすらしゃべっていた。
「…こういう仏壇用の線香じゃなくて、花の香りのとか…そういうののほうが、ユヅキさん、好きかな?アパートのほ
うにラベンダーのがあるんだけど、持って来ればよかったな…」
ロウソクに火をつけるけど、すぐに風で消えてしまう。何度も、何度もライターをカチカチ鳴らす。
「この間、アキの家に行ったんだけどさ、本棚にユヅキさんの本、いっぱい入ってたよ。最近サークルに入ってきた
チナって子も、『ハルの行方』の文庫本持ってたし。まぁ、私はいっつも鞄にユヅキさんの本入れてるけど…ファ
ンの鏡だよね」
私はちょっと笑った。
「……それからね、ユヅキさん」
ファイルを開いて、原稿用紙の束を持ち上げて見せた。
「“きこえるもの”、やっと完成したよ」




――ゆう、頼みたいことが……

死ぬちょっと前まで意識のあったユヅキさんは、小さな声で、ゆっくり言った。
私はちょっと顔を近づけて、なぁに?って聞いた。

――書斎の机の引き出しに、書きかけの原稿が、入ってるの。…ずいぶん前に、話したよね……“きこえるもの”っていう、
幽霊の話を、考えてるって……。

私は頷いた。その原稿を、どうすればいいの?ここに持ってくればいい?ユヅキさんは、首を横に振った。

――ゆう……続きを書いてくれない?

ユヅキさんは、かすかに微笑んだ。でも、私、小説なんて書いたことないよ…。

――大丈夫。私には、私の……ゆうには、ゆうの…ゆうだけの世界があるんだから…。ゆうにしか書けない、ゆうの心が………

ユヅキさんが書かなきゃ。早く元気になって、書けばいい。私だって、ユヅキさんの世界をもっと読みたい。

――そんな顔、しないでよ。私はまだ…もっと、生きるから。

それなのに、ユヅキさんが、なんでそんなことを頼んだのかは、よくわからない。




「本当に最初のところだけしかユヅキさん書いてないんだもん。大変だったよ。まぁ、楽しかったけどね」
私は原稿用紙を広げた。私の生きる世界とユヅキさんの世界のつながりは、もう、この紙の上にしかない。
「じゃあ…私が書いたところから読むね」

――ほら、コスモスが咲いてるよ。

風に揺られる花を見上げて、私は微笑んだ。
きこえる……
「例えば、そう……。ある海辺の小さな町の公園に、一人の子どもの幽霊が住んでいました――」


the end.


あとがき*********************************
大学受験の勉強が切羽詰ってた時期に、勢いだけで書いたお話。
誰かの心の中で、ずっと生きていける場所を分けてもらえたら、素敵だなと思います。
一応これは『きこえるもの』という物語の裏話として書いたので、そのうち『きこえるもの』も
アップしたいと思います。
読んでくださってありがとうございました。
団長
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