ベンチウォーマーキャプテン
ネットが揺れた。
歓声。
ロスタイム、残り僅か一分という時だった。同点に追いつかれた。
この時間にこの仕打ちって、神様はもしかしなくてもサドなんじゃないだろうかと思う。
(……って、)
ごめんなさい神様。俺たちが下手糞なのをあんたの所為にして。
わあわあとはしゃぐ相手チームを、俺はベンチでぼんやりと眺めた。舌を鋭く打つ。
「ぼさっとするな!まだだ!」
キーパーが叫ぶ。ボールを蹴ると同時に笛が鳴った。延長戦だ。
観客席のため息がこちらまで聞こえてくるようだ。
吹奏楽部、泣いてんじゃねえ。俺たちはまだ負けてねえ。
二軍三軍、何落ち込んでんだ。中等部の連中も。もっと声だせ。
まだ、終わりじゃねえ。俺は観客席を睨んだ。
ベンチに選手が戻ってきた。真っ白なユニフォームが泥まみれだ。赤く火照った顔で白い息を吐く。水分補給する選手の横で監督が怒鳴り散らしている。
俺はウインドブレーカーの袖に手を引っ込めて、冷えた掌を擦り合わせた。白い息ごしに渡辺の疲れた顔が見えた。うるさいじじぃ。そう思ってる顔だ。
(何やってんだ)
お前は、白峰のエースだろう。白峰のファンタジスタだろう。
他の連中も。お前達は天下の白峰だろう。無敗の王者の白峰のはずだろう。
こんなとこで手こずってる場合じゃない。あんな、無名の初出場のチームに負けるチームじゃないはずだ。
負ければベスト4だ。ベスト4ごときで良くやったね、頑張ったね、って言われて嬉しいか?
嬉しくないだろう。もっと根性見せろよ。
相手のベンチの熱気が伝わってくる。円陣を組んで打倒白峰だとか叫んでる。
ああ、そういやあんたら試合開始前に喧嘩売ってくれちゃったっけね?
俺らは何だ! 王者白峰! 潰すぞ! おう!
いつも通り控え室で声出しをした後の事だ。戸の外で出くわした相手チームのキャプテンに睨まれた。
何が白峰だ。俺たちだってサッカーが好きだって気持ちなら負けはしねえ。
何かそんな事言ってたっけね?
その時俺は鼻で嗤っただけだった。それはそれは、良かったですね? そういう気持ちをたっぷり込めて。
サッカーが好きだって気持ちなら負けはしねえ?
あらそう。
ってか最初からそんな勝負俺の負けだよ。好きなんてもんじゃない。俺はサッカーが憎いよ。俺はそんな恥ずかしいセリフ吐けちゃうお前が羨ましいよ。
なあ、だって、お前の側には渡辺篤郎はいなかったもんな。
『朝日啓介君、キミ、渡辺君と寮で同部屋なんだってね?普段の渡辺君ってどんな子?』
女の子から告られても鬱陶しいって断っちゃう奴ですよ。
渡辺に9番奪われた先輩にどつきまわされて、それでも笑ってた奴ですよ。
お前はサッカーできなくなった俺に興味あるか、って聞いてくるような奴ですよ。(そして俺はその質問に興味ねえよって答えた)
「……そうですね、すごい不器用な奴ですかね。ほら、ナベって皆さん知っての通り無愛想でしょう? だから結構勘違いされちゃうんですけど、宿題写させてくれたりするし、実は結構優しいんすよ」
だなんて、俺は笑顔で記者の質問に答えた。
だって俺はキャプテンだし?
優等生な答えが求められてるんだ。ここで王者白峰の風格を落とすような答えを言っちゃ駄目なんだ。それが分からないほど馬鹿じゃない。ついでに言えば、本音ぶちまけていざこざを起こそうってほどヤンチャでもない。
『へえー。実は裏庭で野良猫に餌をやってたりとかいうエピソードもあったりして?』
そんな気持ち悪い事してる渡辺なんて渡辺じゃねえ。
むしろ裏庭で野良猫蹴り殺してたりするんじゃねえの? (俺は知らないけど。中一の頃から同部屋だけど、あいつに関しちゃ知ってる事はそんなに多くない。エロ本のどのページがやけに強く折り目がついてるとか、何かそんなくだらない事なら知ってるけど)
「ははっ、どうでしょうね。けど動物は好きなんじゃないですかね? いや、根拠は無いんすけど」
にこって擬態語が似合う笑顔で俺は言った。こういうサワヤカな笑顔が似合う顔じゃないとは俺自身知っている。
一重瞼の大きな目。よく言えば猫目というやつだ。本当、よく言えば。
白目の勝った目は鋭く、後輩が裏であいつの目マジやばくね?ヤクやってんじゃねえの? って言ってるのも知ってる。
誓って、やってない。
煙草すらやってないのに。
少なくともあと四年、上手くいけば十年以上(つまりはサッカー続けてられるかぎり)やるつもりはない。
髪は日に焼けて茶色いし、ばさばさだ。一試合終えたあとなんて、そりゃもう恐ろしい形相だ。以前新聞部に激写されていた試合中の自分は、自分でもびっくりするほどアグレッシブな形相だった。
『渡辺君って、女の子にもてるんじゃない? 何たって『ピッチのサムライ』『惜敗の王者・白峰を勝利に導く期待のエース』だしね!』
むしろ告られた回数は俺の方が多いんじゃないかな?
だって俺は『惜敗の王者・白峰のキャプテン』だからね?(キャプテンとエースなら女子的にキャプテンの方が上なのかね)
「いやあ、ほんとあいつはもてますよ。男の俺から見ても格好良いですもん。何か武士ー、りりしいーって感じで」
苦笑。髪の毛かきながらあいつには敵わねえって顔で。
『ところで朝日君。キミは白峰のキャプテンだよね? なのに何で次の試合スタメンじゃないのかなあ?』
この糞記者(って多分顔にでた)。
そんなもん、俺が下手だからに決まってんだろ。
白峰に入学して、最初は二軍だった。
中三の春、ようやっと一軍の控えに上がった。先輩がそりゃもう丁寧にいたぶってくれた。お約束通り体育館倉庫で。
控えから抜け出して、10番を背負った。小さいときからずっと憧れてきた、白峰の真っ白のユニフォーム。その10番。
そして高校に上がってからまた二軍に降格。
必死でもがいてもがいて一軍に上がったのが二年の春。やっぱり先輩にいたぶられた。今度は屋上だった。
二年の終わり、お前に主将と10番任せる、監督がそう言った矢先、一つ下に編入生が現れた。
三年の春、10番をそいつに奪われた。奪い返そうと必死になって、必死になりすぎて膝を壊した。リハビリ中にスタメン落ちしてた。同時に彼女にも振られた。
(って、全部説明しろって?)
俺は困ったなあという笑顔を浮かべて言った。
「……そういう、答えにくい事聞かないで下さいよ。まあ、怪我してたんで」
違う。怪我の所為にすんなよ俺。こんな惨めな事答えさせんじゃねえよ糞記者。
『へえ、怪我……。残念だねえ……』
同情をありがとう。
膝のリハビリ中、サッカー部専用グラウンドで駆ける渡辺の背を目で追っていた。俺はグラウンドのトラックを何周も走りながら、砂まみれで汗まみれでボールを追う渡辺の背を見ていた。
背番号は9。エースナンバー。
俺はそう遠くないいつか、この背ををブラウン管越しに見るんだろう。
苦笑しながら、同時にどうしようもないほどの息苦しさに見舞われた。苦しくて悔しくて腹が重たくなった。
グラウンドの隅で膝をついた俺に気付く者は誰もいなかった。痛む膝をさすり、俺は空を見上げた。
飛行機雲がまっすぐな線を描いていた。
師走の半ば、渡辺と二人で神社に行った。二人で示し合わせて行ったわけじゃない。ランニング中、偶然出会ったのだ。
すぐ側に神社がある、どうせならお参りしていくかと、コースを変えた。鳥居をくぐり、百は越えるだろう階段を、渡辺の背中を眺めながらのぼった。
手を打って目を瞑る。賽銭はいれてないが、まあ神様のこころはそんな細かい事を気にするほど、狭くないだろう。
「何を願ったんだ?」
手を合わせたまま中々目を開けない俺に、渡辺は問いかけた。
「内緒。言ったらこういうの叶わなくなるって言うだろ? お前こそ、何願ったんだよ。やっぱ全国大会優勝?」
ふん、と渡辺は鼻を鳴らした。年不相応に不敵な笑みで目を伏せる。
「それは、神に頼む事ではないだろう。俺たちの手でもぎ取るものだ」
「そりゃまあ、確かに。神様には自分の力じゃどうしようもできねえ事を頼まないとなあ」
渡辺が神様に何を願ったのかは知らない。渡辺も、俺が何を願ったのかは今も知らない。
あの時俺が願った事。
どうか、こいつが俺の側から消えてくれますように。
カッターを手にするたび、屋上のフェンスの側に立つたび、思う事があった。
思って、思い直す。
まだ、これからだ。まだ諦めるな。覚悟なんてとうの昔にしていたはずだ。渡辺と同室になったあの日から。俺は、こいつと比較して見られる事すらないんだって悟ったあの日から。
張り合おうなんて考えるな。もともと立つ舞台が違うんだから。悔しがる必要なんてないんだ。
ほら、言うだろ? ナンバーワンよりオンリーワンだってさ。
だなんて、なんの慰めにもならない言葉での虚しい自慰行為。
笑いたいんだか泣きたいんだか何がなんだか分からなくなって、そのうちにゲロが出た。渡辺が処理してくれた。情けなくてどうしようもなかった。
渡辺の背を見るたびにため息が零れる。渡辺のプレイを見るたび、天才と凡才の違いを思い知らされる。
そりゃあ俺だって、白峰の一軍だ。
それなりに上手いし、それなりの才能があるって分かってる。それが本当に『それなりの』って事も。
努力して、血反吐の中もがき続けて、それでも天才には敵わない。努力神話なんて嘘っぱちだ。それが白峰に入って学んだ事。
努力すれば夢は叶う?
……はっ、そんなわけあるか。もしそれが本当なら世の中プロでごったがえしだ。
後輩に10番を奪われた頃、無茶な練習を繰り返す俺に渡辺は言った。
「無理をするな」
無理するなだって?
「無理しねえでどうやって上手くなれんだよ。どうやって10番取り返せんだよ。なあ、答えろよ」
どうやったらお前に追いつける?
胸倉を掴んで揺さぶった。
渡辺は苦しい、という顔をしていた。それから、もう寝ろ、と俺の肩を叩いた。
中学に入って、こいつと同部屋になって、自分が井戸の中でゲロゲロ鳴いてただけだって知った。高校に入ったら、サッカーなんてやめてやるって思ってた。
けど、やめられなかった。
今もずっと、必死でしがみついてる。
押し潰されそうなほどの劣等感を背負いながら、それでもずっと、ピッチのあの熱気を求めてる。
(神様にいっこ感謝しねえとな)
俺はMFで、渡辺がFWだった事。
これでもしポジションまで一緒だったら、きっと俺はもうお空の住人だ。
「I wish I were the bird!」
習いたての英文を屋上で両手広げて叫んだ日もあった。たぶん中一かそこらの時だ。言った後で俺キモイって馬鹿笑いした。
風に乱れる痛んだ髪を押さえる俺の後ろから、渡辺はぽつりと小さく呟いた。
「……never、だな、俺は。I never wish I were the bird」
「……俺もまあ、そう思えれば良いんだけどねぇ」
鳥になりたいなあなんてくっさい事。
思わせんてんのはお前だろ?
とは悔しいから言わなかったけど。