そっと目を閉じて,それに口づける.
さようなら,今までありがとう.
金属の冷たさで,いつも正しい音を教えてくれた.
目を開けると,見慣れた音楽室の光景.
アップライトピアノと譜面台と指揮台.
誰かが楽譜を,ピアノの上に置き忘れている.
「何やってんの?」
突然,ドアの方から声をかけられて,私は振り向いた.
夕暮れの音楽室に,影が長く伸びる.
逆光で顔が見えづらかったけれど,私にはすぐに誰だか分かった.
「お別れの挨拶.今日で最後だから.」
島田はふ〜んと頷いて,音楽室の中に入ってきた.
人もまばらな放課後だからなのか,制服のネクタイをはずしている.
「ネクタイ,注意されるよ,先生に.」
一応,忠告したのだけど,島田はどこ吹く風でスルーした.
「どこの高校に引っ越すの?」
私の隣を行き過ぎて,ピアノの置いてある場所まで歩く.
さりげなく,言葉を投げ捨てて.
「岡山.遠いでしょ?」
私は笑った.
「合唱は,続けるだろ?」
島田は笑わなかった.
「合唱部があったらね.」
ピアノの蓋を上げて,島田はぽーんと弦を叩く.
「続けろよ,そんで全国大会に来い.」
「簡単に言うなぁ.」
うちの高校,――もう,うちの高校って言えないか,は常連高だけど,次の高校はそうじゃない.
そもそも,合唱部があるかどうかも知らない.
「島田,……お願いがあるんだけど.」
まっすぐに,ではなく少しだけ曲がって,ピアノの側へ行く.
「最後に一曲だけ歌ってくれない? 私のために.」
我ながら,微妙な告白だ.
「この前の演奏会のソロを聴かせてよ.」
すると島田は目をぱちぱちとさせた後で,ピアノの鍵盤の方をにらみつけた.
「なぁ,俺……,」
弾かないのに,じっと凝視される白と黒の縞模様.
「うぬぼれて,いいわけ?」
ぴょんと島田の顔が跳ね上がり,私はどきっとした.
「駄目だよ.」
くるりと背を向ける.
「私,明日から居ないもの.」
壁にかけられた額縁の中に入ったモーツアルトさん,こんにちは.
ぽーんぽーんぽーんと,ドの音が背中を打つ.
「電話,する.」
ベートーベンが,怒った声を出す.
「メールも,送る.」
シューベルトが,ちょっと優しい声を出す.
「そんなことしたら,うぬぼれるよ.」
今,私の声は困っている? 喜んでいる?
「うぬぼれろ.」
ばんっと和音が響いて,私はびくりと震えた.
次に,どん,と島田の声が奔流となって流れ出す.
部屋中,響き渡る.
びりびりと鼓膜を刺激する,怖いぐらいに.
島田の,声.
私の脳すべてを染め上げる.
秋の寂しさ,冬の寒さがあるからこそ,春はすばらしい.
体中を鳴らして,島田は歌う.
コンクールの審査員のためではなく,会場を埋め尽くす観客のためでもなく.
私ひとりだけに向かって.
打ち付ける,夏の夕立のように.
吹き飛ばす,小さな不安を.
押し流す,確かな意思を持った声で.
ただ歌う島田の顔を見つめていると,ぷつりと歌が途切れた.
唐突に,島田はがくりと崩れ落ちる.
「どうしたの,島田!?」
島田はピアノの下に隠れるように,頭を抱えてしゃがんでいた.
耳が,真っ赤だ.
バリトンのソリストが,ゆでタコになっている.
「恥ずかしー…….」
か細い,蚊の鳴くような声.
思わず,笑ってしまった.
「ありがとう.」
歌ってくれて.
「笑うな.」
拗ねている,不機嫌な声.
私の好きな,島田の声.
「あのさぁ,」
言いづらそうに,ごにょごにょと篭りながら.
「あんなものにキスするぐらいなら,俺にしてくれよ.」
まさか人が来るとは思わなかったから,私はものすごく仰々しく口づけを送った.
音楽の神様に祈りを捧げる,巫女のように.
「……遠距離,がんばる.」
私の胸の中,産まれたばかりの小さな決意を告げる.
島田は,いまだ顔を隠したまま.
しゃがみこんだまま.
「だから……,」
顔を上げて,と言う代わりに,私は右手に持った音叉で島田の頭をコンと叩いた.
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