息のつまるようなその空間で、言葉は静かにこぼれ落ちた。
「俺は何、を、間違えてしまったんだ?」
 古ぼけたアパートの一室。格段に家賃の安い建物は、部屋の方も酷く狭い。灯りの類は一切点けられておらず、窓までもが遮光式のカーテンで閉め切られ、淡い闇に沈んでいた。僅かにカーテンの細い切れ間から光が差し込んではいるものの、それは重苦しい部屋の雰囲気に圧倒されて、星明かりよりも頼りない。
 くたびれたソファに座り込む男は、頭を抱えて溜息をつく。自身の髪をかき乱す手は瑞々しくまだ年若い者のそれに見えたが、その影からのぞく顔にうって変わって深い皺が刻まれ、まるで瀕死の老人のようだった。しかしその皺は、恐らく月日を重ねることによってではなく、男の心の問題によって刻まれたものだろう。彼の目線は始終そこらを飛び回って一所に留まることなく、細かく足を揺すり、時折思い出したように舌打ちをする。おどおどとしたその様子は、明らかに彼が何かに怯えていることを示していた。
 髪を掻き回すうち、いつの間にか額の方から一本ずつ毛を引き抜くという動作に熱中していた彼は、不意に手を止めて己の足下に転がるものを取り上げた。それはおよそサッカーボールほどの大きさで、美しい花の模様の布で包まれている。彼は震える手で、けれど愛おしむような所作でゆっくりとゆっくりとそれを撫でながら、ひたすらに繰り言を重ね続けた。
「俺、は、間違えて、なかった。なかったが失敗を、どこかで失敗し、てこんな事、に、こんなこ、事こんな、になって、間違えた」
 鳴り続ける歯のせいか、恐怖に焦れる心のせいか、あるいは単に早口すぎて舌がついていかないのか、言葉は傷の付いたCDのように繰り返される。
「でもどこ、どこで何、で何を、どこ、で、間違えた? いや違う違う違う俺は俺は間違ってない、ないでも間違、えたこ、こんなはずじゃなかっ、な、かった、こんなはず、で間違えるはずじゃこんな、間違えるなんて違うこんなことするつもりなんか――」
「……そんなことを言うのは、もう止めましょう?」
 興奮してきたのかますます空回る男の言葉を、不意に断ち切る者があった。優しげで、鈴を転がすような声。
 暗い部屋の中、男は独りではなかった。彼のすぐ横に、棒のように無造作な気配で、女が一人立っている。
「今更だわ――後悔だなんて。遙か昔の過ちを、取り返しのつかない頃になってから考えて、それで一体何になるというの?」
 まだ幼さの残る若い女。顔立ちは取り立てて美しくも醜くもないが、ただ、まっすぐな髪は闇の中でさえ艶めいていた。彼女はソファの足下に座り込むと、男の太股に頭をもたせかけ、僅かに赤い唇を釣り上げる。
「大丈夫よ。貴方は間違ってない、それを私が肯定してあげる。貴方がどれほど罪の意識に苛まれたって、どれほど後悔の念に苦しんだって、貴方のしたことは何一つ間違ってなんかいないわ」
 少なくとも私にとってはね、と小さく付け加え、喉の奥で音もなく笑う。しかし男はそれが聞こえたのだろうか、撫で続けていた手を止めた。
「だからいいのよ、そんなこと気にしなくって。それよりもほら、私の方を見てくれなくっちゃ。ね? 私を見て。ここにいるじゃない。ねえ、ずっと貴方の側に」
「そ、そう、そうだ。君は、君は確かにここに。ここにい、いる……なのに、どうして、どうして俺はこんなにも」
 不意に男の体が強張った。恐怖に引きつった顔が、ゆっくりと玄関の方へ向けられる。
「どうしたの、貴方」
 言いかけて、女は口を噤んだ。男が怯えた原因が彼女にもわかったのだ。少しずつこの部屋に近づいてくる高い靴音。このアパートではあまり聞くことのない響き。耳慣れないそれは、とある可能性を連想させて、あまりにも簡単に男の精神に恐慌を来す。
「………!!」
 震える自分を抱きしめる代わりのように、彼は包みを胸の中へと引き寄せた。女は眉を寄せると、その体に静かに覆い被さった。その仕草は愛おしむように優しく、しかし同時に支えとしてもたれ掛かっているようでもあった。
「……大丈夫、この部屋を尋ねてくる人なんていないはずよ。大丈夫。誰にも私たちを引き離せたりしないわ。大丈夫よ、大丈夫……」
 気丈な声は、男に言うのと同時に、自分を奮い立たせるものでもあるのだろう。近づいてくる足音に、ドアへと視線をやってきつく睨め付ける。足音は容赦なく一定のリズムを保って歩き続け――
 通り過ぎていった。
 それは男の恐怖にも女の覚悟にも関わりなく、実にあっさりと歩き去り、やがてここよりも二つ奧の部屋の前で立ち止まって中に入って行ったようだった。
「こ、ここに来たんじゃ…………なかったのか……」
「……そうだったみたいね」
 安堵に、というよりも緊張に耐えかねて息をつく男に、女もやや疲れた笑みで答えた。
 いつの間にか日が暮れたようだ。カーテンの隙間の光さえ失せ、部屋は黒一色に塗りつぶされてしまっている。それでも男も女も、電気を点けようとはしなかった。彼らにとって、もはや光など必要のないものなのだろう。
「……なあ」
 男が、頭上に包みを掲げた。
「君は、俺を許してくれるだろうか」
「なあに……何を言っているの、今更。私があなたのすることで許せない事なんて、もうないのよ」
「今の俺の状態は、君に対する裏切りのような気がするんだ」
 それまでのひどいどもりが嘘のように静かな声で語りながら、布に手をかける。
「あら、なぜ?」
「俺は……思ったんだ。君がいれば何もいらないって。君がいてくれればそれだけで俺は、他の何を持たなくても、完璧に満たされた気持ちでいられる。安らかな気持ちでいられるって。あの時は、本気で」
 花柄の布が床に落ちる。その下から現れたのは、上質のシルクだった。包みの中身は、この上ないほど慎重に守られている。
「でも、それは違った。今の俺はこんなにもみっともない……他人の足音にびくびくして、ドブネズミよりも卑屈な男だ」
「そんなことない! 貴方は誰よりも素敵よ。だって、私の愛した人なんだもの!」
 心の底から叫ぶ女に答えないまま、男はシルクもほどいていく。シルクの下にもまた布がまかれていた。清潔な、目の粗い布。包帯である。
「だけど――いや、だからこそ、君に許してもらいたいんだ。結局俺は君がいただけでは満たされなかったけど、それでもまだ……いいや、前よりももっと君のことを愛しているから。許してくれ」
 鼻を啜る音が部屋に響く。男は涙ぐみながら、それでも手を止めることはなかった。慣れた手つきで包帯をほどいていく。最後の一巻きまで丁寧に取り去って、そして現れたものを、自分の顔の前に掲げる。艶やかなその手触りを楽しみながら。
「いつか必ず、君への愛だけで、何一つ欠落のない幸福を感じてみせるから」
 縋るように呟いた言葉は、結婚の宣誓よりも真摯で、厳かで、情熱に溢れていて――彼はそのまま、唇を寄せた。
 その傍らにいる女と、同じ顔をした生首に。
 女が背筋を震わせた。


「好きだよ、君が何よりも好きだ。だから俺は我慢できなかったんだ。君が俺から離れていくなんて――」
「ああ………………!」
 女の感極まった言葉は、部屋の空気を揺らすこともなく闇に溶けた。
「何て、何て人なのかしら貴方は、こんなにもこんなにも私を愛してくれるなんて、何て純粋で誠実で真っ直ぐなんでしょう! そんなあなたのすること全て、どうして許さないはずがあるの? それどころか怒ることさえできないわ、だって貴方のすることは、みんなみんな、私への愛ゆえなんですもの――私の命を奪ったことさえ!」
 もちろん彼女はわかっているのだろう、目の前で己の首に口付けの雨を降らす男に、その言葉が届いていないことなど。だがそれでも彼女は喜びのままに蕩々と語り続けた。
「今までそれほど私を愛してくれた人なんていなかったわ、父も母も親戚も友達も知人も、誰も彼もが私のことを疎んでた。愛してくれなかった。……だから初めてだったの、私を愛してくれる人に会えるなんて思わなかったから私はとてもとても嬉しかったわ。でもそれと同時に、貴方が私を愛すれば愛するほど辛かった。いつかそれを無くす日が来るんだろうって。恐かった。だからなのよ、あの日あなたにお別れを告げたのは」
「――だから、こういう形で、君を引き留めておくことにした。耐えられない、君を失うだなんて、そんなこと」
 男にとっては、部屋にいるのは彼一人だ。だがそれでも彼は許しを求め、懺悔のように語り続ける。
「貴方への愛がなくなったわけじゃなかったの、本当よ。だけど失うかもしれない恐怖は、私にはあまりにも耐え難かった」
「本当に、本気で思っていたから。君さえいれば後は何もかもいらないと。全て上手くいくと」
「だけど貴方は、別れを告げた後でさえ私への愛を無くさなかったわね。それどころか、今もこうして側に置いてくれる」
「君はきっと怒っているんだろうな。勝手に君の体をバラバラにして、あまつさえこんな風に頭だけ……でもこれで、君はもうどこにも行かない。許してくれ。まだ今は、君を殺したことがばれたらと怯えている俺だけど。人を殺したことは間違いだけど、君を俺のものにしたことは間違いじゃないから」
「私をどこへもやらないで。私を置いてどこへも行かないで。怯えることも恥じることもないわ、貴方がしたことは何も間違ってなんかいない。だって、貴方は私の望みを叶えてくれたんだもの!」
「いつか、罪悪感なんか捨てて、君への愛だけで生きて行けるようになってみせる」
「前は失うことを恐れたけど、今こそ私は信じられるわ。私の貴方への愛は尽きることがないし、貴方から私への愛だって尽きることがないんだと」

「「だって、この愛は永遠だから」」


 今夜は月もない。街灯の明かりも、そこには届きはしない。
 しかし、それでも不自由はないだろう。外界を拒絶し、温かな闇の中で、彼らは手探りで幸せを探していける。
 二人の行く先に光はいらない。


永久に君を愛す