追懐の彼女 〜みえるもの〜




――田島さん、絵、うまいね。

隣の席から声をかけられて、飛び上がった。そんなことないよ、と言って、慌てて数学のノートの端に描いていたイラストを消す。確か、ぶっさいくなネコのイラストだった。

――消しちゃうの?もったいないよ。

単調な話し方だ。芝居の下手な俳優みたい。
このとき、私は初めてまともにユヅキの顔を見た気がする。2年生になってクラス替えしたときから、きれいな子がいるな、とは思ってたけど、ユヅキはいつも一人で、ぼんやりしてて、あんまりクラスの誰とも話さなくて、ちょっとクラスの皆から切り離された場所にいるみたいだった。

そもそも、高校のときの私は、中学校のときのように仲の良い友人がたくさんできたわけではなかったし、他人のことよりも、自分のことばっかり考えてた。
こんなことを言うと、私がナルシストみたいに聞こえるかもしれない。でも、私は自分を卑下しなければ、客観的に自己を見つめられないと思い込んでいた。というか、そう思わずにはいられないくらい、私は自分が大嫌いだった。年をとるごとに嘘をつく回数が増え、強がり、自分以外のものとの距離をうまくとれなくなって、この先いい方向へ向かうはずなんてない自分を、常に心の中で罵っていた。

けれど、不思議なことに、私は、自分の描く絵が嫌いではなかった。私自身の人間性なんて、成長するどころか、ちっぽけな人間になっていくばかり。でも、私の絵は、描けば描くほど変わっていく。うまくなってるかどうかはわからないけど、変わっていく様子を自分で見ているのは、楽しかった。

でも、私は自分の絵を他の人になるべく見られないようにしていた。恥ずかしいのもあるけど、一番の理由は、私の頭の中を覗かれてしまうような気がして、怖かったからだった。

私の絵は、描けば描くほど変わっていく。

私の頭の中に合わせて、変わっていく。



――田島さんって、美術選択だったっけ?

私は音楽の授業を選択していた。

――もったいないなぁ。

もう一度そう言って、ユヅキは机からノートを引っ張り出した。表紙に『数学U 2年3組 井川由月』とマジックで書いてあったけれど、二重線で消されていた。そのままノートのページをめくり始めたので、私はここでこの会話は終わりだと思って、さっきのイラストの復元作業に取り掛かろうとした。でも、すぐにチャイムが鳴って授業が始まり、さっきまでネコがいた場所は、すぐに真っ黒な数字やら記号やらで埋められてしまった。

もう、そのネコには会えなかった。どこへ行ったんだろう。家に帰って、数式の下に埋もれているネコを探してみたけれど、消し跡はよく見えないし、どんなネコを描いたのか、はっきりと思い出すことが出来なかった。





あのとき、ユヅキがめくっていた数学のノートは、今、私の手元にある。私の鞄の中に。
黒の、礼服に合わせて使う鞄…あんまり使いたくないものなんだけど。今は、私の隣、助手席に置いてある。時間よりもかなり早く来てしまったのに、駐車場はずいぶん混んでいた。
時間ギリギリまで、車の中で待っていようか。葬祭ホールの入り口の様子を見て、ちょっと行く気がしなくなった。ああいう人だかりは、ユヅキもあんまり好きじゃないと思う。しかも、それが自分に向けられているだなんて。
薄暗い車の中、私は鞄を開けて、ノートを取り出した。『数学U 2年3組 井川由月』という字は二重線で消されていて、その下に、本当のタイトルが書き込まれている。

『マスカレードの裏側で』

なんで、持ってきてしまったんだろう。着替えて、メイクして、必要なものを鞄に入れて、行く準備をして……なんとなく、本棚から取り出して、鞄に入れてしまった。
室内灯をつけて、久しぶりに、表紙を開いてみる。1ページ目は、真っ黒だ。いや、グレーだ。いや、白い部分も、ちょっとだけ、あった。







――田島さん、ちょっと悪いんだけど…蝶の絵、描いてもらえないかな?

ネコのイラストを見られてしまった次の日、いきなり話しかけられて、私はまた飛び上がってしまった。蝶の絵?

――あ、うん。簡単にでいいんだ。今すぐじゃなくていいし、嫌だったらいいんだけど…

べつに嫌じゃないけど、でも、なんで?

――なんていうか…うん、田島さんの蝶の絵が見たいの。私、今、蝶のことで頭がいっぱいで。

確信。やっぱり、この子、変わってる。

ワケわかんない。


それでも、どんな蝶を描こうか迷って、家の本棚にあった古い図鑑から蝶の写真を探し、丁寧に描いた。人に見せることを前提に絵を描くのは、中学の美術の授業の課題以来だったから、少し緊張して、ユヅキに手渡した。

――わぁ…蝶だ。ありがとう。

1ミリの感謝も伝わらないような口調で言いながら、ユヅキはじっと蝶の絵に目を落とした。

蝶、好きなの?

――特別好きってわけじゃないんだけど、ずっと考えてることがあって…。これ、鉛筆一本で描いたんだよね?すごい、不思議で、きれいな色…。

ユヅキの席は窓際だった。初夏の日差しに蝶の絵を透かし見て、呟いた。

――白黒、白黒蝶々。いいネーミングじゃない?

しろくろちょうちょ……確かに、ちょっとかわいい響き、かも。

チャイムが鳴って、その日の会話はそこでおしまいかな、と思った。先生が入ってきたから、私は自分の席に戻った。教室の中は、まだざわめいている。

授業やっぞ〜、席座れ〜ぃ。日直、号令!

起立!


――ね、田島さん、もしよかったらでいいんだけど…

まだ周りの私語は止まっていない。その中で、ユヅキが、こっそりささやいた。

――この絵に合わせて、物語を書いても、いいかな?

礼!

私は礼なんかしなかった。ただ、びっくりして、ほとんど何も考えずに、うなずいた。別にいいけど、こんな絵から、何を書くっていうの?

――書きたくなる絵だよ、これ。ありがとう、出来たら見せるね。

着席!

周りの私語も止んで、私たちのその日の会話も、そこで終わった。








どれくらいの時間、真っ黒な1ページを見つめていたんだろう。
ページをパラパラめくってみると、あるページにティッシュペーパーが一枚はさまっている。そのページには、あの蝶の絵が貼り付けてあった。

…へったくそな絵。バランスが悪い。影の位置がおかしい。

笑えてきた。

あの子、こんな絵で何を書こうとしてたの?

だめ。

こんなんじゃ、私、車を降りられない。

こんなんじゃ、ユヅキに会えない……。


私は、小刻みに震えて、笑いをこらえていた。しばらくそうしていたら、本当は、泣いてるんだってことに、気付いた。







その頃の私にとって、一番問題だったのは、やっぱり進路のことだった。私の通っていた高校は、一応進学校だったし、周りはみんな大学への進学を希望していた。
たぶん、ユヅキも、そう、真面目に勉強していたと思う……私とは違って。

絵描きになる、なんて夢は、『現実的な将来設計』ではなく、『無謀な夢』に分類されるってことは、とっくに知っていた。

だから、もしかすると、

蝶の絵をユヅキに見せた次の日、無残な結果の小テストを、点数を見てすぐにファイルに押し込んだとき、隣の席から、また声がかからなかったら、何かが変わっていたかもしれない。

ユヅキは、私にノートを差し出した。

『マスカレードの裏側で』

――昨日、書きあがった話なの。読んでくれないかな?

たいして仲良くも無い人にこういうことを頼まれるのは変な気がしたけど、私だって絵を見せたし、表現する何かを見せる、というのは、もしかしたら、コミュニケーションの一つなのかもしれない、と思った。

いいよ、私、本好きだし、井川さんがどんな話書くのか見てみたいし。

ちょうど休み時間だった。表紙をめくって……1ページ目には、たった二行しか書かれていない。


(わたしのせかいに あなたはいない
 あなたがいないと わたしもいない)


恋愛小説かな、と思った。けど、全然違った。
この子、とんでもない話を書いてた。
つまり………

うっぁあ、グロテスク!

……なんてことを言いながら、私はその話を読んでいた。
ユヅキは、その横で、めずらしく、クスクス笑っていた、気がする。
今思えば、ユヅキも、もしかしたら、私と同じように、人に自分の書いた話を見せるのに、すごく緊張していたのかもしれない。


――面白かった?

面白かったよ、グロいけど。なんていうか…変に期待を裏切られたわ……


『マスカレードの裏側で』は、ほんの7、8ページほどの、短い話。主人公は、最後の最後まで、姿を見せない。自分を守っていてくれた、周囲の人々すべてがいなくなって、やっと、表舞台に出てくる。裏手からすべてを見守っていた主人公は、すべての秘密を知っていたけれど、結局のところ、舞台に上がるまで、その秘密の意味することさえわかってなかった………ワケわかんない。


――あ、『白黒蝶々』はそんなグロテスクな話にはしないから安心して。もっと爽やかだから。

どんな話になるのか、まったく予想できなかった。想像がつかなかった。

それに、結局、私は、その話を読むことができなかったんだ。



……ワケわかんない。











震える手で、やっとメイクを直して、車から降りた。雪混じりの雨が降ってる。寒い。早足で入り口のほうへ行くと、人ごみの中から声が飛んできた。でも、なんにも聞こえない。な〜んにも。
記者のひとたち、この寒い中、ご苦労様。でも、私には、なんにも聞こえない。聞きたくない。聞かないでよ、なにも。

「すみません、報道関係の方々は玄関まででお願いします!」

聞き覚えのある、声。

「…ゆうちゃん?」

「あ、みほさん!」

受付から報道陣に向かって声を張り上げていたのは、ユヅキの同居人の女の子だった。

「忙しそうだね」
「うん、あんまり盛大にやらないでほしいって言われてたしさぁ、人が集まるのはいいんだけど、写真撮られたりするのはイヤ」
ゆうちゃんは、普通の若い女の子だ。つい最近、就職活動を始めるまでは、明るい茶色の髪に、ばっちりアイメイクで目を大きくさせていた。今は髪を黒に戻したけれど、雰囲気は、あまり変わっていない。

「ユヅキ、あんまり騒がれるのは嫌いだもんね。おつかれさん、手伝うことあったら言ってね」
「うん、ありがと」

私の後ろにはまだまだ人が並んでいたから、わたしはさっさと受付を離れてホールへ入っていった。

ユヅキに直接会うのは、何ヶ月ぶりだろう。仕事のことで、電話はしょっちゅうしてた。
最後に会ったのはいつ?


………そう、夏がはじまる頃だ。






私とユヅキは、少しずつ、話すようになった。
お互いに表現手段の手の内を見せてしまったから、かもしれない。まぁ、ユヅキはやっぱりほとんど無表情だったけど。それでも、ほんのちょっと、考えていることとか、話してくれるようになった。

――自分の考えてることは、自分にしかわからないでしょう?でも、自分でも、本当は、自分の考えてることは、正確にはわからないんじゃないかと思うの。

うん、そんな気がすることはあるよ。で、自分の気持ち疑っちゃって……優柔不断になるのって、きっとそのせいだよね。

――自信がないから、か……アヤはきっと、その典型だと思う。本当は、頭もいいし、きちんと行動できるはずなのに…いや、だからこそ、なのかな。

アヤというのが、『白黒蝶々』の主人公らしかった。ユヅキはぼぅっと教室の天井を眺めながら、お弁当の最後の一口を、ひたすら箸でつっついてた。早く食べればいいのに。

――やっぱり、時間かかるかも。書くのに。

ゆっくり書けばいいじゃん。

――うん…そうなると思う。今まで書いたのとは、たぶん、全然違った話になる気がするから。

どんな話?

――まだ、ハッキリとは決まってないんだけど……不思議な蝶々を、見つけるの。ううん、見つけたんじゃなくて、見えるようになったんだわ。

その蝶々は、普段見えないの?

――見えないの。近くにいても、気付かない。どうしたら見えるようになるんだろう…

ユヅキは、話しながらストーリーを考えているようだった。

なんか…ファンタジックな話になるのかな?

――ううん、ちょっと違うと思う。

ユヅキは、そこでやっと、最後の一口を口に運んだ。飲みこんで、ゆっくり、言った。

――むしろ…うん、きっと、アヤは、ファンタジックな話に逃げ込みたいと思うの。


それは、私のことだって、言いたくて、言えなかった。



その日の夜、自分の部屋で、教科書と、ノートと、問題集を開いて、隠すようにしながら、絵を描いていた。

逃げたいのは、私だった。アヤじゃない。

誰かが階段を上がってくる。私は慌てて絵をノートの下に隠した。
予想通り、ドアが開く。母親が入ってきて、勉強ははかどっているかと聞く。私は適当な返事を選んで、教科書で問題を解く公式か何かを調べているフリをしながら、母親が部屋を出て行くのを待つ。

おっそろしい期末テストが近づいてきてる。カレンダーをちらっと見て、気持ち悪くなった。

お金のかからなくてすむ、地元の国立大学?あの大学出ておけば将来安泰?
母親が何か言ってる。聞いてない。そんなの、興味ない。
目の前に広がってるのは、なに?見たくない。ノートの下には、全然違う世界が隠れてるのに。ずっと隠しておかなきゃいけないのに。

私は問題集を睨んだ。何言ってんだか、さっぱりわかんない。
どうでもいいと思ってた、いろんなことが、突然、憎らしくなってきた。

手元で、バキン、と音が鳴った。

4Bの鉛筆が、折れていた。




















こんな儀式は周りにいる人たちの自己満足だなんて、不謹慎なことを考えていた。

予想以上の人出だったようで、椅子の数が全然足りてなかった。時間ぎりぎりに来た私は、後ろのほうで突っ立って、じっとしていた。
立ち見席。何のパフォーマンス?
息苦しかった。密葬にするつもりだったのに、周りの人たちが勝手に盛り上がっちゃって、と、ゆうちゃんが電話で言っていた。

…どう思う?ユヅキ

人々の頭越しに、心の中で、姿の見えないユヅキのほうへ疑問を飛ばした。

…これでいい?

返答なんか、期待してない。でも、式が始まってから、お経も話も、半分以上聞いてなかった。






(若さの特権を、捨てたつもりで、本当は、ずっとしがみついていたらしい。)






いわゆる、不登校。ひきこもり。
突然始まった『抵抗』に、周りは相当驚いたようだった。たぶん、一番戸惑ったのは、親だったと思う。真面目なこの子、今さら反抗期が来たみたいで、なんて。
学校に行かないっていう選択肢は、それまでなかった。単純に、そんなことをするのが怖かった。もっと正確に言うと、周りの反応が怖かった。

なんで、突然こんなことを? そんなの、私が聞きたいね、母さん。
何が嫌か? しいて言うなら、空気ですよ、先生。
どうしたいのか? それを探すのは、大人の仕事じゃないってば。わかる?父さん。

周りの言うことを聞き流せるようになってから、怖いものなんて無くなった。
朝、親が説教に部屋へ来て、仕事に出かけたら、私はゆっくり起きて、のんびり朝ごはん。贅沢。絵を描いて、昼ごはん。絵を描いて、電話が鳴っても無視して、絵を描いて、玄関のチャイムを無視して、絵を描いて、親が帰ってきたらまた説教で、玄関から担任の声が聞こえてきたら少し眠って、絵を描いて、毎日、繰り返し。描いた絵は、全部ファイリングしてベッドのマットレス下に隠していた。
トイレとお風呂と食事のとき以外は、ほとんどベッドの中。4Bの鉛筆と、白い紙を持って。
描けなくなるまで描こう。描けなくなったら、外へ出よう。
変なの、こんなことでひきこもってるなんて。でも、普通の理由がどんなものかなんてわからない。カーテンを引いて、外は見ない。ドアは閉まってる。ここは私の国。布団から顔を出して、見渡した限りでは、陰気で、ちっぽけな国。十分、私らしいじゃない。かわいい雑貨が置いてあったって、それを照らしくれる光が無いんだから、よく見えないまま。十分、私らしいじゃない。カレンダーは見えないように、壁からはずしてしまった。十分、私らしいじゃない。

――もったいないよ。

ユヅキの、あのときの、私を見ているようで、見ていないような、瞳。








喪主は誰なのか、よく知らない人だった。その人の話(何を言っていたのか、よく聞こえなかった)が終わって、あとは、お焼香をすませて、帰るだけ。みんなぞろぞろと列になって、祭壇の前へ向かった。私も、その列に加わる。私が出るのは通夜だけで、あとの葬儀や告別式には出ない。仕事だ。それに、出る気がしない。
私の番が来て、祭壇の前へ進んだ。お焼香。この香りは、嫌いじゃない。でも、嫌いになりたい。手を合わせて、少しの間、頭を下げて目を閉じてから、祭壇を見た。
棺のところに、不似合いな装飾が見える。とても小さな、小さな額縁。
私が描いた、彩りの蝶。









ひきこもり生活は、結局、2週間だけだった。描くのが楽しくなくなってきた。描いても描いても、満足できずにイライラが募った。そろそろ外へ出よう、あきらめなよ、私はその程度なんだって。好きなことを、嫌いになりたくないなら、そう、これで普通に学校行って、真面目に勉強していれば、ずっと絵が好きでいられる。うれしいことでしょ?だから、もう、いいんだって。


2週間目の夕方、担任の先生が家に訪ねてきた。私は、玄関へ出て行って、明日から学校へ行きます、ご迷惑おかけしました、と頭を下げた。先生は驚いたようだったけど、少し安心した様子で、よかったと言った。この2週間どうしていたのかとか、どうして急に気を変えたのかとか、いろいろ聞かれたけれど、もういいんです、とだけ答えた。まったく的を射ない返答にあきれかえった先生は、そういえば田島は井川と仲よかったかな、と話題を変えた。
私たちは、仲がいい、とか、そういう関係なのだろうか。まぁ、そうですね、と返事すると、先生は少し、考えてから、井川がここ2日ほど学校に出てこない、家族とも連絡がつかない、と言った。クラスの誰も、ユヅキとまともに話したことなんかないから、何も知らない。でも、私だって、なんにも。


(わたしのせかいに あなたはいない
 あなたがいないと わたしもいない)


なぜか、突然あの一節が頭に浮かんできて、ぞっとした。
……ワケわかんない。

私は先生をほったらかして、階段を駆け上がった。部屋に入って、クローゼットから制服を引っ張り出し、すぐに着替える。ちらっと鏡を見ると、髪はぼさぼさ、目は腫れぼったい。いいよ、十分、私らしいじゃない。
先生が玄関から呼んでる。ネクタイを結びながら、部屋を出て、先生の横を通り抜けて、外へ飛び出した。一瞬、外の光が眩しすぎて目が痛くなる。でも、空は曇ってる。ちょうど仕事から帰ってきた母が、驚いて今降りたばかりの自転車を倒した。
「母さん、それ貸して!」
倒れた自転車を起こしてすぐに跨り、猛スピードで学校へ向かった。ここ2週間の運動不足のせいか、息切れがひどいし、ペダルも重い。なんで学校へ向かうのか、自分でもよくわからなかったけど、私の知っている世界なんて、そのくらいしかない。

そろそろ部活動を終えて、みんな帰ろうとしている時間帯だった。駐輪所や玄関で、知り合いが声をかけてきたけれど、それどころじゃない。玄関前に自転車を止めると、教室へ駆け込んだ。

誰もいなかった。

息苦しい。激しい運動をしたあとは、すぐに立ち止まったりしたらだめだって、誰か言ってた。ゆっくり、窓際の席へ歩く。席替えは、まだしてないはず。息を切らしながら席について、教室を見渡した。ここは戦場。静かな戦場。ユヅキも、ここがあんまり好きじゃなかったのかもしれない。いつもこんな隅のほうで、他の世界のことを考えて、窓の外を眺めて……

ふと、隣の席を見た。ここから、私はどんなふうに見えただろう。自分の席に移って、窓際の机を見てみた。

(若さの特権を、捨てたつもりで、本当は、ずっとしがみついていたらしい。
 俺はタイミングが悪かったんだ。いや、度胸が無かったせいか、それとも…)

「それとも、運か…」
あの物語の主人公は、気が弱い男だった。目の前の現実を、誰よりも理解していたのに、それを受け入れられなかった。背中を丸めて、ひっそりと暮らしていた。何も見えないふりをして。



――田島さん。

教室の入り口に立っているのが誰か、気付くのに、少し時間がかかった。

「…学校、来たんだ」

――田島さんもね。

ユヅキは自分の席に来て、座った。少し、やせたように見える。薄暗い教室の中で、さらに、小さく見えた。

「先生が探してたよ」

――そうだろうなぁ。ちょっと困ったことになって……私、学校やめることにした。

「え」

いつもの無表情で、ユヅキは淡々と話した。

――もういいの。私の書いた小説、出版社に送ってみたんだけど…連絡がきて、ぜひ雑誌に掲載したいって。

「すごい!よかったじゃない」

――うん、本当、うれしかった。それで……でも、ね、悪いことが、ひとつ、起こって。

井川さんって、こんな声だったっけ。

――ちょっと前のことなんだけど…病院へ、行ったの。検査の結果が、おととい、きて…

ユヅキは、こっちを見ないで話してる。何見てるのか、わからない。

――私、HIVに感染してた。

あぁ、そっか、なんて言えない。相槌の打ち方も、わからない。ユヅキが、何を見ているのかも。ただ、自分の、息を呑む音が聞こえて、ユヅキは、やっぱり、新人女優賞には程遠かった。

――…笑えるよね、どこの誰とも知らない人からウイルスもらっちゃって。そういうリスクがあるってわかってたのに、何も、見えないふりして、ただ、自分がここにいるってことを確かめたくて……そういうこと。もう、私はできる限り、いろんなものを書くことに専念したいし、学校でやることなんて、もう、どうでもよくなっちゃって……ほんと、笑っちゃうよね。

「…笑えないよ」

自分の口調が、思った以上に、乱暴に聞こえた。

「笑って、ないでしょ」

ユヅキが、ゆっくり、こっちを向く。

――そう、だね。

不思議なものが、見えた。ユヅキと目が合った瞬間に、教室の中、すべての色が溶け出して、目の中に流れ込んできた。目の中は、水彩絵の具の筆を洗ったバケツみたいになって、そのうち、溢れ出した。

「ばっかみたい、なんで、そんな……」

――私は…私になりたかったの。他の誰でもない、唯一無二の、私に。それを、確かめたかったの。私は、ここにいるって。

「ワケわかんないよ」

きっぱり言って、目をこすって、溶け出した色水を振り払って、やっと見えた。ユヅキの仮面のような表情が、するりと落ちるのを。きっと、私も、今、こんな顔してる。

――これで、いいの。よかった、ここで会えて。

ユヅキは、鞄の中からノートを取り出した。『マスカレードの裏側で』だ。

――もらってくれない?

差し出されたノートを、受け取るべきかどうか、少し、迷った。

「いいの?」

――うん…ごめんね、『白黒蝶々』、今の私には、書けそうにないの。

「いつでもいいよ。書けたら見せて。私もまた、絵、描くから。」

ノートを受け取ると、ユヅキは、かすかに微笑んだ。

――本当は…田島さんのことを、書きたかったの。たくさんの世界を見せてくれる、絵を描く女の子のこと。

やっぱり、この子、変わってる。


雨が降り始めた。梅雨入りだった。














「みほさん、忙しいのに、来てくれてありがとう」
帰ろうとしたところで、ゆうちゃんに頭を下げられて、ちょっとまごついてしまった。
「いえいえ、そんな…。そういえば、ちょっとびっくりしちゃったんだけど、あの絵…」
「あぁ、あれ、ユヅキさんのお気に入りだったんだ。机の上に飾って、しょっちゅう眺めてたよ」
「そう……あの絵、最後にユヅキに会ったときに、あげたものなの。昔、蝶の絵を描いたことがあって、ユヅキがそれを気に入ってくれたんだけど…あの絵を、今、描き直すなら、どんなふうになるだろうってふと思って、描いてみたんだ」
「へぇ、そうなんだ…みほさんの絵って、色あざやかだよね。『ハルの行方』の表紙とか、私好き」
「照れるなぁ、ありがと。それじゃ、ゆうちゃん、またね」
「うん、また」
手を振って別れた。雨は止んでいる。人混みから飛んでくる声は、無視。車に乗り込んで、エンジンをかけたけれど、混雑しているから、駐車場から出るのに時間がかかりそうだ。

助手席に手を伸ばして、あのノートを手に取った。外灯に、ぼんやりと照らされた、真っ黒の1ページ。鉛筆で、真っ黒に塗りつぶされた、あの一節。なんで、って聞いたら、ユヅキは、たしか、こう答えた。

――もう、私は、確かめる必要なんかないから。

「まったく、ワケわかんない」

ノートを閉じて、鞄の中に入れた。ギアを入れて、ハンドルを握る。
結局、私は、あの話を読めなかった。ユヅキは、書けないって言った。あの子は、何を書きたかったんだろう。
ゆっくりアクセルを踏み込みながら、昔描いた、あの白黒蝶々を思い浮かべた。車のヘッドライトに照らされると、すぐに闇の中へ溶けてしまいそうな、蝶。あの日、この目に流れ込んできた、色の洪水。
私の中で、新しい何かが、始まろうとしている。これは、いつもの絵じゃない…そう、あの物語だ。



(久しぶりに出会う空を見上げて、彩は夏が来ることを知った。日差しの色も、風の香りも、2週間前とはずいぶん変わってしまった――――)





the end.



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最初に考えていたよりもずいぶん長いものになってしまいました…だ、だって、みほがダラダラしゃべりすぎるからっ!(え〜。
一応、『追憶の彼女』とつながった話ではありますが、これ1本だけでも読めるお話を目指しました。これも、そのうち『みえるもの』を書くつもりです(いつになるやら…)。
自分の世界を広げてくれた、いろんな出会いに感謝。
読んでくださってありがとうございました。
2008年、春 団長
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