流れる汗をきらめかせながら、子供達が弾けるような笑い声を上げる。彼らにとっては照りつける厳しい日差しも、何ら不快なものではないらしい。そこここにある張り出した小梢や尖った頭を出す小石、唐突にへこんでいる地面の穴など、数多の障害物を巧みに避けては木々の間を走り抜け、全力で遊びに興じている。
 ある少女は、年下の少年と手をつないだまま、間一髪で追いかけてきていた少年から逃げおおせた。また別の少女は、自分の腕を掴んだ少年の力が強すぎたと泣きわめき、周囲の子供達を困惑させていた。その様子を、既に捕まって、解放を待ちながら陣地に押し込められている子供達がいらいらと眺めていた。
 子供達の数は二十人ほど。彼らはその小さな森の中で、思うままに逃げ回り、追い回しながら遊んでいた。
 だから気付くことができなかったのだ。一人の少年が夢中のあまりに、木々の茂る方へ、森の暗く深い場所へ迷い込んでいたことに。
 
 彼は戸惑った目で周囲を見渡した。
 年上の少年に追われ、最初はふざけて軽く走っていたのに、そのうち相手が腹を立てて本気で捕まえに来たので、彼も必死に逃げ回った。その結果、今、かつて立ち入ったこともないような暗い場所に佇むこととなっている。
 先程まで皆と遊んでいた場所は、空き缶などのゴミや木肌に彫りつけられた落書きが、そこが人の領域であることをひそやかに主張していた。しかしここはというと、厚く積もった腐葉土といい、日差しを遮るほど茂った木々といい、まるで人の気配を伺うことはできない。いや、より厳密にいえば、生き物の気配を伺うことができない。通常この季節であればうるさいほど鳴きわめいている虫の声さえなく、ただ時折風が木々を撫でていく葉擦れだけがこの場で聞こえる唯一のものである。
 あまりの静けさに声を出すのもはばかられたのか、少年はしばらく、ただ無言で歩き回った。しかし、やがて共に遊んでいた子供達の姿がどこにも見られないことを知ると、立ち止まって小さな声で親しい友人の名前を呼んだ。大きな声を出さなかったのは、森の静寂に己の叫びが吸い込まれてしまうのを恐れたためだろうか。だが森に飲まれずとも、空気を震わすだけでやっとというか細い声では、とても遠くの友人達へは届かない。幾度も呼びかけを繰り返すうち、少年の顔は不安や寂しさといった感情で悲愴に歪んでいく。そしてついに、耐えかねたように一粒の涙が丸い頬を転げ落ちた。
 その時、森の奧で何かがひらめいた。それに気付いた少年は、一瞬大袈裟に身を引きつらせ、目を大きく見開いた。彼の前、暗く影の落ちた所。
 木の後ろから一本の手が突き出していた。
 細かいところを観察するには距離は微妙に遠く、性別も、年齢の具合もよくわからない。ごく自然に森の風景にとけ込んでいて、少年が未だ歩き回っていたとしたら気付くことはできなかっただろう。だがこうして見つけてしまえば目を逸らすことはできない。そんな奇妙な吸引力を持つ手は、感情を窺わせず、まるで何の目的もないかのような素振りでただ突き出している。ひらめいたと見えたのは、その手の動きだった。今こうして少年が見つめている前でも、ゆっくりと指を丸め、伸ばし、波打たせている。木の葉が風にそよぐのにも似た様は、彼を招いているようだった。
 彼はその動きに従って一歩踏み出しかけたが、思いとどまったように足を戻した。その表情にはもはや悲しさはないが、不安は未だ色濃く残り、また、猜疑という新たな感情も現れていた。手を見つけた時、少年は恐らくそれが友達の誰かだと考えただろう。だが友達ならば、彼を見つけた時点で声をかけてくるはずだ。ならば、今そこで招いている手は、誰のものなのだろう。そんな考えが、少年をその場に留めているようだった。だが、すぐに少年は慌てたように駆け出した。ゆっくり動いていた手がふいに動きを止め、木の陰に引っ込んでしまったのだ。
 手が隠れた時、少年が得体も知れない何者かについていく場合のリスクと、その場に留まって一人不安を押し殺して待つ場合の恐怖や不安とを秤にかけていたかはわからない。逃げたから追いかけた、それだけのことだったのかもしれない。ただ彼は、一度手の招きに従うと、もうその導きを疑うことなど考えられなかった。目の見えないものが他人に手を引いてもらうように、ただ一心に手を見失わぬよう、それだけに努めた。
 
 手は、常に少年の先にいた。彼に追い抜かれることも彼を置いていくこともなく、最初に見つけた時の距離を保ったまま、変わらずに彼を招き寄せる。やがて少年は、手の持ち主がわからないという不安も忘れ去ったのか、自然な笑みをその顔に浮かべていた。周囲の木々は次第にまばらになり、手を見失う心配もなくなると、その頃にはすっかり安心しきった様子で、どこからか聞こえる鳥の鳴き声に合わせて歌い出しそうでさえあった。
 やがて少年は声をあげた。歌ではなかったが、歓喜の声だった。目の前が開けて、そこに友人達の姿を見つけたのだ。大声で名前を呼ぶと、彼らも少年に気付き、口々に声をあげて少年を迎えた。言葉は揶揄するようなものであったが、そこに籠められているものは温かく、少年は面映ゆそうに笑った。
 ふざけ始めた彼らに、その場で最も年かさの少年が近づいて、一体どこにいたのかと訊く。彼を始め子供達は、少年がいなくなったことに気付くと、彼を捜して森の中を集団で探し回っていたそうだ。そうして森の中程にさしかかったところ、探していた少年の方から飛び出してきたのだということだ。
 少年が素直に森の奧に迷い込んだようだと答えると、年かさの少年はやたらと感心してみせた。この森は小さいながら、奧の方に迷い込んでしまうと、自力で出てくることは大人でも難しいのだという。それを聞いて少年は、自分一人の力ではないと言って自らの来た方向を振り返った。そしてすぐに目当てのものを見つけ、ほら、あの人が、と指を差して、ふいに口を噤んだ。
 指差したその木の後ろからは、手が突き出している。
 全く感情を窺わせず、ただ突き出すために突き出しているといったような無為な素振りをしている手が木の陰にある。それはゆっくりと動いて、招く仕草をした。 
 まるで森が動いたようだった。
 少年が振り向いた先で、全ての木の陰から手が突き出していた。太く、成長した幹の陰からではない。まだ若く細い幹からも、小指のような枝からも、一枚の薄い葉からも、森の木々のあらゆる陰から、手が突き出していた。
 言葉を出すものは一人もいなかった。子供達は誰か気付いただろうか。虫の声が聞こえない。鳥の姿が見えない。生き物の気配がしない。
 沢山の手が一斉にゆっくりと指を丸め、伸ばし、波打たせる。
 子供達を招いている。



 太陽は西の空に少しだけ朱を滲ませて姿を消した。星が段々と数を増し、夜を彩る。
 大地にわだかまる陰のような森には、沢山の命が息づいていた。幾百かの獣と、幾千かの鳥と、幾万かの虫と。だがそれらは押し黙って動かない。
 やがて月も空に昇る。
 暗い森の中の木の陰に、月の光を浴びて、一本の手が







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