「夜十二月」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



−1−

「あら、高宮さん。おはようございます」
 出勤途中のゴミ捨て場で、そう挨拶をしたのは、おしゃべりで知られている広瀬夫人だった。
 度数の高いメガネの奥には、子供のような好奇心を秘めた両の目が納まっている。もっとも、その好奇の目が捉えるのは子どものそれとは違い、他の家庭の夫婦仲を推察できそうなものがもっぱらであるが。
「おはようございます」
 高宮は簡単な挨拶だけを交わし、そのまま通り過ぎようとした。
 五分程度の立ち話で遅刻するほど切迫した時刻ではないが、十分ならば電車に乗り遅れるかもしれない。ましてや、この広瀬夫人は一度しゃべり始めると三十分は止まらないことを高宮は知っていた。
 露骨にならないように気をつけながら、歩調を速めて広瀬夫人とすれ違う。
 幸いにも呼び止められることはなく、順調に駅へと向かうことができそうだった。
 次の瞬間、目の前の脇道から新たにゴミ袋を持った女性に会うまでは。
「あ〜ら、広瀬さんとこの奥さん。それと高宮さんも。朝から会うなんて奇遇ねぇ」
 服を着た雪ダルマ。鈴木夫人は見る人にそんな印象を抱かせるほど、曲線的な体形をしている。
 昼寝と間食、そしてワイドショーを好んでいそうな、ドラマに出てくるステレオタイプな『中年主婦』を思わせる容姿。その外見にまったく違わず、鈴木夫人も下世話な世間話を好んでいた。
「ちょっと二人とも、聞きました?」
 なんの前触れもなく、鈴木夫人は話を切り出す。あまりに唐突で、ゴミ袋を持った女性が何を言っているのか、高宮はすぐには理解できなかった。
「え? え? なんの話ですか?」
 すかさず広瀬夫人が反応し、あっというまに三人は道端で三角の形に向き合った。
 自分の倍近い年齢の女性二人に気づかれないように、高宮はそっとため息をついた。
 どうやら抜け出すタイミングを逸してしまったようだ。ある程度は話を合わせて、隙を見て逃げ出そう。時間のこともあるし、この十二月半ばの空の下は、立ち話を許すほど寛容な気温ではない。
 そんな高宮の気持ちも露知らず、熟年女性たちの会話は熱を増すばかりだった。たまに高宮にも話が振られ、そのたびに曖昧にうなづいていたが、内容はほとんど耳に入っていない。
 よその家で誰かが不倫した話の、一体どこが面白いのだろうか。高宮にはまったく理解ができなかった。もちろん、それを表情に出すようなことはしないのだが。
 他人の家庭に興味はないが、他人からどう思われているかには関心があった。どうせなら、周囲から良い評価をされたほうが、暮らしをするにあたって便利になることが多々ある。
 二人の合唱のようなおしゃべりから、いい加減に抜け出そうと高宮が口実を考えていると、カバンの中で携帯電話がメロディーを奏でだした。
「おっと、電話だ。すみませんが、これで失礼します」
「あらやだ。引き止めちゃったようで、ごめんなさいね」
 実際に引き止められていたわけだが、高宮は、いいえ、とだけ答えた。
 二人から離れ、カバンから携帯を取り出すと、そのディスプレイには見知らぬ番号が表示されていた。
 知人はもちろんのこと取引先ですら全て登録してあるので、知らない番号からはかかってくるはずがない。しかし、現にこうしてメロディーは流れ続けている。
 とりあえず出てみようと通話ボタンに指を乗せた瞬間、間の悪いことにコールが終了し、携帯は曲を止めた。
「……まあ、いいか」
 用事があるならまたかかってくるだろう。なんにせよ、夫人たちの会話から抜け出せたのは助かった。
 高宮は携帯をカバンに戻し、駆け足で駅へと向かった。


−2−

「よ。今朝は大変だったな」
 高宮は職員室について早々、なじみのある声とともに肩をたたかれた。
「おはようございます、先輩」
 大学時代から付き合いのある葉山だった。すでにお互い教職についているが、葉山は大学のときからまったく変わらない態度で接してくる。陽気と暢気を混ぜ合わせたような性格は生徒たちから評判がよく、教師陣の中では一番慕われていた。
 逆に校長や教頭など、いわゆる管理職からの評判は良くない。熟年の教師たちが望む、理想の教師像から葉山がかけ離れているからだった。なまじ教師として優れていることも、かれらの心象を悪くする一因となっている。
 葉山自身は他人にどんなに悪く思われようとも気にしていなかった。ただ、やりたいことをやっているだけ。その結果、悪いイメージを与えたとしても、それはそれ、仕方のないことだと思っている。
 その意味では、葉山と高宮は正反対の性格をしていた。
「朝っぱらからあの奥様方に絡まれるとは。いやはや、まったくついてない」
 葉山は欲しかったおもちゃを手に入れた子どものような顔で言った。同情するよ、俺なら全力で逃げ出すね。
 人によっては嫌味な男だと思うかもしれない。しかし、高宮は葉山の表情を好意的に受け取った。
 大人でありながら、少年のままでいる男。その事さえ知っていれば、彼に悪意がないことはすぐに理解できる。ただ面白いかどうか、それだけが彼の行動原理なのだから。
 結局のところ、高宮はこの気楽な男が好きなのだ。先輩としても、友人としても。
「まったく、先輩は人が悪い。見てたんなら助けてくださいよ」
「悪い悪い。今日は紗智子が一緒だったんだ」
 その名前を聞いて高宮は、ああ、と頷いた。
 葉山の愛妻家ぶりを、高宮はよく知っていた。何度か一緒に食事をしたことがあるし、なにより葉山から毎日のようにのろけ話を聞かされている。
 そのわりに夫婦喧嘩が耐えないようだが、これも一種の愛情表現なのだろう。
「仲直り、できたんですね」
「ちと高くついた。まったく、いい年こいてすぐ怒るやつだ」
 文句をいいながらも、やはり笑顔だった。聞いてるものとしては、もはや返す言葉もない。
「そういや、お前はどうなんだ?」
「なにがです?」
「当然、彼女だよ。前に少し話してただろ」
 先日、二人で飲みに行った時のことを言っているようだ。
 その話をしたときはかなり酔いが回っていたし、翌日になって何も言わなかったので、すっかり忘れているものだと高宮は思っていたが、どうやら甘かったようだ。
「ぼちぼちですよ」
「お、小心者のわりに生意気なこと言うじゃんか」
「余計なお世話です」
「具体的には?」
「そのうち話しますよ。ほら、そろそろやめないと。さっきから教頭が睨んでますよ」
「うお、マジだ! んじゃ、続きは今週末でお前のおごりな〜」
 最後に不穏なセリフを置いて、葉山は自分の机に飛んでいった。どうやら根掘り葉掘り尋ねられそうだ。
 本当のことをあの先輩に言ったら、一体どんな反応をするだろうか。
 想像するだけで高宮は苦笑してしまった。きっと驚くだろう、それも今までに見たことがないほどに。


−3−

 朝の肌を切るような寒さは、昼になって鈍りを見せ、夜には再び勢いを取り戻していた。
 駅を出ると明かりは急激に少なくなる。数メートルごとの街灯は、道を照らすためではなく暗い場所をより鮮明にするためにあるように思えた。
 白い息を吐きながら、高宮は今朝に教頭が言っていたことを思い出していた。
 ――ここ2,3日、この街で不審な人物がうろついている。
 実際になにかしらの事件が起きたわけではなく、あくまで妙な目撃情報があったというだけではあったが、念のため生徒たちに連絡をするようにとのことだった。
 噂によると、その人物は黒いジャンパーを着て深く帽子をかぶり、サングラスとマスクで顔を隠して周囲をうかがいながら歩いていたという。
 それを聞いたとき、高宮はあきれ返った。葉山にいたっては、腹を抱えて大笑いしたほどだ。いくらなんでも、怪しいにもほどがある。
 なんにせよ、生徒に危害が及ぶのは避けねばならない。そう判断した学校は、部活動を含め全ての学校活動を普段より一時間はやめて終了させ、帰宅させることにした。
 その影響は教師にも現れた。この自由さは私立校ゆえだろう。冬の日は完全に沈んではいるものの、時刻はそれほど遅くはなっていなかった。
 だから、というべきか、なのに、というべきかは高宮には分からなかった。
「……ん?」
 人通りも街灯も少ない道。駅から高宮の自宅まで最短だからと、この道を選んだのは失敗だっただろうか。
 細い道の中央に黒いジャンパーを着た人物がいた。深く帽子をかぶり、この暗さでもサングラスをかけている。その右手には、携帯電話が握られていた。
 高宮のカバンから、着信を知らせる携帯電話のメロディーが流れ出した。
「見つけた」
 マスクの奥から、くぐもった声が聞こえた。おそらくは男の声。
 高宮は全力で走り出した。今まで歩いてきた道、男とは反対の方角へ。男もすぐに高宮を追いかける。
 何がなんだか分からない。高宮は混乱していた。一体どうなってる、なぜ自分は追いかけられているんだ。
 ひたすら無言で走り続けた。助けを求める声は出ない。あまりに突然のことに、うまく声が出せなくなっていた。呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。さっきからまともに息を吸い込むことすらできていない。
 走りながら振り向いた。男はなお、高宮に向かってくる。
「だ、だれか」
 自分でも驚くくらいにか細いかすれた声だった。
 当然、その声はだれにも届くことはなく、彼が置かれた状況にも変化はない。
 ついに、男は高宮に追いついた。走ってきた勢いを殺すことなく、飛び掛るように体当たりを仕掛けた。
 背中に強く衝撃を受け、高宮はアスファルトに叩きつけられるように転がった。思わず突き出した手に擦過傷を負ったものの、それ以外のケガはなかった。
 男は高宮を見下ろしていた。顔が隠れているため表情は読めない。しかし、サングラス越しの視線は鋭かった。
「お前が…千鶴を……」
 千鶴。男はその名を口にした。
 高宮はもちろんその名前の女性を知っていた。なにせ藤沢千鶴は、高宮が世界で一番愛している女性で、彼の家にいるのだから。それが葉山に教えなかった、高宮だけの秘密だった。
 目の前の男は、その千鶴を知っていた。そして、高宮と繋がりがあることも。
 一歩、また一歩と男が高宮に近づいてくる。それに対し、高宮は座り込んだまま後ずさることしかできない。
 高宮の頭は完全の飽和状態だった。もはや恐怖心もない。ただ、逃げようとだけ考えている。逃げる、どこに? そんなことは知らない。ただ、遠くに。なぜ? それも知らない。とにかく逃げろ。
 遠くから、吼える声が聞こえた。それもよく知った声だ。
 高宮の背後から、男に向けて何かが飛んできた。猛スピードのそれは、寸分たがわず男の顔に直撃し、中の液体をまき散らした。
「クソッ。なんだこれ!? クソッ!」
 男は激しく憤る。サングラスは落としてしまったようで、その素顔がすこしだけ覗いていた。
「……」
 だんだんと近づいてくる足音。それに気づいた男は、すぐさま逃げ出していった。
 後に残ったのはサングラスとコーヒーの缶、そして腰を抜かした男が一人。
「ほんとにお前は世話が焼けるな」
 やってきた葉山が、右手を差し出した。
 遠慮なくその手を掴み、よろめきながらも高宮は立ち上がった。その足は震えていたが、葉山は何も言わなかった。
「先輩、助かりました。ありがとう、ございます」
 緊張で荒くなった息を整えながら、礼を述べる。
「ったく、朝はオバサン連中、夜は変質者。忙しいことで」
「昼は先輩教師に絡まれますしね」
 言い返してやると、葉山はにやけるように笑った。
「そんだけ言えれば大丈夫だな」
 二人で明るい大通りまで出たところで、高宮は葉山と分かれた。かなりの遠回りになるが、この道なら人通りがなくなることもなく、とりあえず安全といえる。
 妻との仲直りのためにお土産を買いに行くという葉山は、デパートへと入っていった。あっさりいなくなった葉山を薄情とは思わない。高宮のかわりに警察に連絡をしようかという葉山の提案を、自ら丁重に断ったのだ。
 いい年した大人がそこまでしてもらうのは情けない。そう言って納得してもらった。ビビッて腰を抜かしてたくせに、と葉山に笑われたが。




後編へつづく